更旅67号 更級日記作者は御所で「更級里」を見たか?

 菅原孝標女が「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」の歌にひかれるきっかけになったかもしれないものに、京都御所の中にある襖絵「更科の里」(写真左)があります。京都御所は明治時代になり首都とともに天皇が京都から東京に移るまでは、天皇家の拠点でした。
 その中の一つの建物「清涼殿」(写真右)内の部屋を仕切る襖絵の一つに「更科の里」をモチーフにしたものがあるのです。清涼殿は天皇が日々の執務をしていた中心的な場所で、「更科の里」の襖絵はその中で執務ではなくプライベートな空間だったとされる「萩戸」にあります。
 清涼殿の内部を示す下の図面をご覧ください。萩戸には計八面のふすまがあり、二面がワンセットで、北西側の二面、番号で言うと11が「更科の里」です。 生誕千年シリーズ「その三」で、孝標女が後朱雀天皇の娘である祐子内親王に宮仕えしたと紹介しました。孝標女は「更級日記」の中で、宮仕えの仕事で、清涼殿に隣接する「藤壺」という建物に上がっていたことを記しています。藤壺は庭に藤が植えられていたことからついた通称で、「飛香舎」が正式名で、ここは祐子内親王の母親がここで暮らしていたことから、祐子内親王と一緒にこの部屋にいました。
 飛香舎は萩戸の北側、つまり図面でいうと上にあり、廊下でつながっていたので、父親のいる部屋の襖に描かれている「更科里」のことも話題になったことも考えられます。
 「更科の里」の襖絵の右上に四角の部分がありますが、ここに和歌が筆書きされ、それをモチーフに絵が描かれています。和歌は<おばすてのやまぞしぐれる風見えてそよさらしなの里のたかむら>。意味は、姨捨山は木々の葉が落ち、小雨にけぶっている、風にすすきがそよぎ、ふもとのさらしなの里はなんともいえぬ風情をかもし出している―。
 歌を詠んだのは江戸末期の歌人、飛鳥井雅典という公家です。飛鳥井は幕府が政策を実行する際の許可を天皇からもらうための取り次ぎをする「武家伝奏」という役職を担っていました。絵は大和絵の名門の子孫である土佐光清が描きました。
 ここまでお読みの方は菅原孝標女は江戸時代じゃなくて平安時代だろと疑問を感じたと思います。そうなのです。実は、現在の京都御所は江戸末期、火事で焼失したものを平安時代の様子に限りなく近く再建したものです。
 平安時代も「更科の里」が萩戸にあったという証拠を探そうと思って文献を当たったのですが、裏付ける記述は今のところありません。ただ、「幕末の天皇」(藤田覚著、講談社)によると、復元造営の基になった考証研究本は平安時代の建物内部の屏風や絵画までを明らかにしているということです。とすると、孝標女が藤壺に上がった当時も萩戸には「更科の里」が襖に描かれていた可能性があります。現在の襖絵は江戸末期の実力者たちが作ったものなので、平安時代は別の和歌と絵で構成されていたと思われます。
 公家が詠んだ歌をモチーフに絵を描くのは平安スタイルで、各地の名所を題材にした襖絵は10世紀初頭には成立していました。10世紀初頭というのは「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」が載る「古今和歌集」ができたころです。今のようにだれでも各地に旅ができる時代ではありませんので、歌人の多くは襖などに描かれた名所絵から自分の想像を膨らませ、歌を詠んでいました。
 天皇の住まいに更科の里が描かれていれば話題になったでしょう。ただ、天皇のプライベートな部屋である萩戸の襖絵なので、めったに見ることはできなかったと思います。当時の貴族の教養は何よりも歌を詠むことでしたから、見たいという欲求は相当強かったはずです。京都御所にある「更科の里」が、孝標女に「更級日記」を書き上げさせる土壌になったとしても不思議ではありません。

 画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。