60号・古今和歌集から大きな刺激

 菅原孝標女はどのようにして更級に心引かれていったのでしょうか。天皇の命令で平安時代に編まれたわが国最初の勅撰和歌集「古今和歌集」が一つの大きな刺激でした。  更級日記というタイトルにつながった和歌「月も出でで闇に暮れたる姨捨に何とて今宵訪ね来つらむ」は、古今和歌集収載の次の歌を踏まえているというのが研究者の間では通説です。
 わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て(私の心はどうにも慰めようがない。姨捨山に照る月を見ていては)
 かきむしられる思い
 なぜ、この歌が孝標女を触発したのかと言えば、闇夜を照らす月の光は太陽の光と違って、哀しみを増幅させるからです。姨捨山に捨てられた老婆の心境を思うと、美しい月であっても、いえ、美しく妖しい光を発散させているからこそ、自分の心はどうにも慰めようがないのです。
 「慰めかねつ」の「つ」に、そのかきむしられるような思いが込められています。「行きかねる」と言えば、行きたいのだけれど、どうしても行けない事情があるという複雑な心境を感じるように、「かねつ」という表現によって、読者は月灯りの下での激しい感情の動きを感じることができます。
 孝標女が何歳で死去したか確定できる史料はないのですが、晩年、夫を亡くして精神的に孤独になっていたと考えられています。
 孝標女が50歳のとき、夫の橘俊通が信濃守として信濃国(長野県)に赴任しました。守とは今で言えば県知事のような立場で、信濃国の行政や政治をつかさどる地方長官です。孝標女は同行せず、都に残っていたのですが、夫は一時帰京したとき、病気にかかり死んでしまいました。
 孝標女は少女時代から物語が大好きで、宮廷貴族の男性と女性の数々のラブロマンスを描いた「源氏物語」の世界にあこがれていました。自分もそんな恋がしたいと思っていたせいもあるのか、なかなか結婚しませんでしたが、33歳で結婚しました。晩婚となったのは、物語の世界へのあこがれも影響していたと見られます。
 しかし、孝標女は子どもを産み、母や妻として生きるようになり、自分を取り巻く社会や現実を知ります。長年、連れ添って情感も共有できる夫婦関係になっていたときに、頼みとする夫が死んでしまったのは、大きな精神的支えの喪失だったようです。この夫婦関係は現代の年配の夫婦関係に通じるところがあります。
 孝標女はそんなわが身を捨てられた老婆に仮託し、「更級日記」を書き上げたわけです。
 夫を偲ぶ思いもあった?
 ただ注意したいのは、だからといって孝標女が悲惨な孤独の状態であったというわけではないということです。彼女にはきょうだいもいて、経済的にはさほど困窮していたわけではないとされます。
 「浜松中納言物語」など平安時代に書かれたほかの古典も彼女が作者とされているものがありますので、彼女には作家的な資質があった可能性があるのです。
 作家というのは実際の自分とは違う別の自分を文章で記すことができる力を持つ人です。実際には孤独であったとしても、文章表現を通じて、それを乗り超えることもできます。わが身を姨捨山に文章で仮託できたことで救済され、精神的には安定した可能性も考えられます。
 「更級日記」研究の第一人者の一人である三角洋一さんはタイトルの由来について、「亡夫俊通が信濃守であった経緯もあり、夫を偲ぶ思いもこめているのかもしれない」(「古典の旅⑤更級日記」)と推測しています。だとすれば、「信濃」といえば「更級の姨捨」という連想がそれだけ強く働いていたことにもなります。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。