更旅16号 夫の死が書かせた更級日記

 平安時代に書かれ、いまでは日記文学の古典として知られる「更級日記」。作者である菅原孝標(すがわらのたかすえの娘が自分の少女時代から晩年までを振り返ったものです。物語が大好きで、少女のころは都でベストセラーになっていた恋愛小説「源氏物語」を耽読し、年をとってからは自分の境遇を嘆く―文章の仕組みはそういうものです。
菅原孝標の娘が「更級日記」というタイトルをつけた理由については、このシリーズの第1回目で触れました。日記の中には更級の文字はどこにも出てこないけれど、晩年の彼女の頭の中には姨捨すなわち更級という連想が働いたから、ということです。
 平凡
その後また何度か読んでみているうちに、作者の夫である橘俊通(たちばなのとしみち)のことが気になり始めました。
  俊通は50歳代後半に、信濃守(しなのかみ)に任命され、信濃国に単身赴任しますが、まもなく死んでしまいます。日記はそのことを記した後、書名を「更級日記」にしたわけが分かる和歌「月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ」へと筆が進んでいきます。研究者の間では、夫の死が日記を書く引き金になったということが通説だということも知りました。
孝標の娘と俊通の夫婦関係はどうだったのでしょうか。日記の中には夫については記述があまりなくてよく分かりません。俊通は受領(ずりょう)と呼ばれる役人です。受領とは都から地方に赴任して行政責任を負い、安定した収入のあるポストです。孝標の娘は三十三歳で結婚しました。当時ではかなりの晩婚です。
孝標の娘は役人の父親の赴任先であった上総(現在の千葉県中部)で、少女期を過ごすのですが、日記の冒頭ではまだ見ぬ「源氏物語」への強烈な渇望をつづっています。当時は今のような印刷技術がなくすべて筆写ですから、本自体の数が少なく都以外では手に入らなかったのです。父親とともに都へ帰った後、全巻を入手しむさぼるように読みました。
数多く登場するヒロインの中で孝標の娘が特にあこがれたのが「浮舟」です。浮舟の生涯を要約するのはとても難しいのですが、あえて短くいうなら男性に恋焦がれながら最もドラマチックな生き方をします。二人の男性の板ばさみになって入水自殺さえ図った女性です。
しかし、孝標の娘にとって結婚と夫婦生活は平凡だったようです。日記の中には「現実の結婚はあまりに期待はずれのしまつであったことだ」と気持ちを吐露した部分があります。裕福であるだけに、物語の世界との違いによけい、落胆したのかもしれません。
  しかし、孝標の娘は俊通との間にもうけた子供が長じていくうちに現実の世界に生きるようになります。夫の出世も願います。信濃守の守というのはいまでいえば都道府県の知事です。だから信濃守は長野県知事です。信濃国の最高行政官であるのだから、家族を伴ってと思うのですが、孝標の娘は同行せず、俊通は単身で赴任します。子供が大きくなっていたためでしょうか。現代のサラリーマン家庭と似ています。
 情愛
守が執務する所が国府と呼ばれ、当時の信濃国府は松本平にあったとされています。信濃国分寺跡のある上田にあったのが、10世紀に松本平に移ったとされます。最近の発掘調査でさらに、上田の前には屋代(現千曲市)にあったことも想定されるようになってきました。
だとすれば、「昔はあの姨捨山、更級の地あたりに赴任」という意識が孝標の娘には働いたでしょう。「うちの夫はあの信濃の国にいる。信濃といえば姨捨山、姨捨といえば更級」というようなことを都の地で、いろいろな人に語っていたかもしれません。物語好きですから、夫の赴任先がロマンチックな場所であることをうれしがっていたかもしれません。
しかし、それも長く続きません。夫が死んだのは任官から約一年後、病死でした。俊通は57歳、孝標の娘は51歳。18年間の夫婦関係でした。
日記は夫の死に触れた後、わがみを嘆く内容に転じます。これは夫への思いの深さを裏付けるとも言えるものです。源氏物語に夢中になったときのような恋心ではありませんが、長く連れ添ったことへの情愛がうかがえます。
 女性の厚い信仰
孝標の娘は夫の信濃国赴任の前から寺社詣でに熱心になっていました。精神的な悩みを抱えた都の貴族の女性たちはよく大和国の長谷寺(奈良県桜井市)に泊り込みで祈願をしました。
長谷寺は真言宗豊山(ぶざん)派の総本山で、大和盆地の南端近く、山懐に抱かれた所にあります。当時、都からは数日の旅程が必要で、盗賊などに襲われる心配があったそうです。孝標の娘は新しい天皇の即位後初めて行われる新嘗祭への参列をやめてまでして、長谷寺に行く信仰心をもつようになっていました。長谷寺のご本尊である観音菩薩は特に女性の厚い信仰を集め、「初瀬詣で」と呼ばれていました。
この初瀬詣でが更級日記と名づけるもう一つの理由になったと思われます。長谷寺のある山は小泊瀬山、小初瀬山と書かれます。読み方は「おはつせやま」です。姨捨山と音が似ています。
亡くなる直前に夫が赴任していたのは姨捨山のある信濃国、そういえば私はおこもりによく小初瀬山に行ったわ、信濃の姨捨山は更級にあるわよね―日記の最終盤をしたためながら孝標の娘はそんなことを連想したのではないでしょうか。事実、日記には夫の死の後、初めて初瀬詣でをしたときに見た夢と、晩年の独り身を関連付けて振り返るくだりが出てきます。
孝標の娘が生まれたのが1008年ですから、2008年は生誕千年となります。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。