それにしても菅原孝標女は古今和歌集編纂から百年も後の生まれなのに、また全部で千を超える歌が載っているのに、どうしてそれほど「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」の歌に思い入れを抱いたのか。宮仕えの仕事をしていたのが大きな要因と思われます。
平安時代の宮仕えとは、貴族階級の女性にとっての最も権威のある働き先の一つで、天皇をはじめとする皇族に仕えることでした。身辺の世話をするのが仕事です。房は部屋の意味で、自分専用の部屋が与えられたことから女房と呼ばれました。孝標女は三十二歳のころ、祐子内親王家に出仕したことがありました。内親王とは天皇の娘という意味で、祐子は後朱雀天皇の三女です。
女房には、皇族が教養を身につけるのを支援する役割が期待されていました。中でも和歌を詠む力を女房は求められました。当時は季節ごとの情感を自分の言葉で表現できることが何よりもコミュニケーションでは大事な素養で、そのお手本が古今和歌集だったそうです。
「王朝生活の基礎知識」(川村裕子、角川書店)によると、和歌の型をおぼえるために古今和歌集は教材として頻繁につかわれました。季節の移り変わりと人間の感情のパターンがぎっしりと詰め込まれているお手本でした。千を超えるすべての歌を暗記していた人もいたそうです。
歌合せといって、和歌を詠み合って優劣をつける遊びがとても大事にされていたので、古今和歌集はそらんじるくらいに自分のものにしている必要があったと思われます。
ただ、平安時代の女性にとって宮仕えの仕事は華やかであこがれである一方、実際にやってみるとなかなか大変だったようです。ベテランから中堅、若手まで幾人もの女房たちが仕えており、女同士の嫉妬やいがみあいもあったと思われます。月が出る夜は社交場にもなるので、男性貴族の相手もしなければならなかったと考えられます。冗談や世間話も交わされたでしょうが、慣れないうちは気苦労が多かったようです。
「更級日記」の中で孝標女は祐子内親王家に出仕したときの苦労を次のように書いています。
うえには時々、夜々ものぼりて知らぬ人の中にうち臥して、つゆまどまれず。恥づかしうもののうつつましきままに、忍びてうち泣かれつつ…(幾夜もよく知らない人たちの中で仕えたが、決まりが悪くまったく眠れず情けなくて涙が出てきた…)
信大名誉教授の滝沢貞夫さんの「しなの文学夜話」(信濃毎日新聞社)によると、現代に知られる姨捨説話は、「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」の歌に触発された女房社会でつくられた可能性があるということです。女房は若さと教養が求められ、身分や境遇が晩年も保証されていたわけではないからだそうです。
だとすると、つらかった宮仕え体験もある孝標女が、晩年になって、そういえば古今和歌集の中の「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」の歌は、私のような年老いた女の身の者が詠んだのかもしれないと、身に沁みてきたとしても不思議ではありません。
写真は、絵入り本「更級日記」(日本大学総合図書館蔵)の中にあるもので、宮中で開かれている管弦の宴の様子です。ここに描かれているのが女房たちです。暁教育図書刊行の「コミグラフィック・更級日記」掲載のものを複写しました。
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