松尾芭蕉の「更科紀行」は、芭蕉のほかの紀行文と違い歩いた土地ごとの記述はほとんどありません。旅の始まり、木曽の道中で出会った「道心の僧」とのエピソードだけと言っていいくらいです。この紀行を漫画化したすずき大和さんの「まんが松尾芭蕉の更科紀行」(河出書房新社販売)で描き出された世界をきっかけに、原文を読み返しているうちに、この坊さんとの出会いが、次の「奥の細道」への旅に自信を与えたかもしれないと思うようになりました。
「をかしきこと」を展開
中央に「更科紀行」の全文を掲載しました(以下に紹介する原文の部分は太字)。冒頭で「吹き始めた秋風にしきりに誘われて、さらしなの里の姨捨山の月を見ようと美濃を旅立った」と旅の目的を明らかにしているため「更科紀行」というタイトルが付いたのですが、この段落の最後には「ものごとのしどろにあとさきなるも中々にをかしきことのみ多し」と、いろいろ大変なことがあったけど、面白いことばかりがある旅だったと打ち明けています。この段落はいわば紀行の前書きで、続く段落でその「をかしき」こととは何かを全面展開しているのが「更科紀行」の特徴です。
2段落目の冒頭に早速「六十歳くらいの道心の僧」という言葉が見え、その「をかしきこと」を体験させてくれた人物として登場させています。「道心」とは「仏道を修めようと思う心」という意味で、「僧」だけだと文章に落ち着きがないので、頭につけたと思います。芭蕉はこの僧の風体について「おもしろげもをかしげもあらず、ただむつむつとしたるが、腰たわむまで物負ひ、息はせわしく、足はきざむようにあゆみ来たれる」と、難しい顔をしながら荷物をたくさん背負って苦しそうに歩いている姿を紹介します。
原文は文語体なので読み始めたころは深刻な感じを受けたのですが、すずき大和さんの漫画では、はげ頭に豊かな白い鼻ひげ。なんともユーモラスな味のある老僧なのです。江戸時代ですから、60歳といえばもう老人だったでしょう。こうしたキャラクターが与えられると、その後の芭蕉がした「道心の僧」体験にもそのキャラの性格が反映されます。
道心の僧が面目躍如するのが、3段落目。芭蕉はこの坊さんと宿を同じくして、夜は一緒の部屋にいたようです。そのとき芭蕉は昼間に作った俳句を作ろうとするのですが、うまくいかず、頭を叩いてうめいていると、道心の僧がこれからの旅のことが心配で気が滅入っているのにちがいないと勝手に解釈して、説法をいろいろ聞かせるのです。芭蕉はこれに「風情のさはりとなりて、何を言ひいづることもせず」と閉口したようですが、すずきさんの漫画では、それも楽しんでしまっている芭蕉の余裕のある姿が描き出されています。僧は芭蕉だということを知らなかったに違いありません。芭蕉も名乗らなかった、いやまだ名前が全国に知られる前に時代ですから、名乗っても僧には分からなかったかもしれません。
気さくでおせっかい
すずきさんの描き出した「道心の僧」は、信州で親しみを込めて住職を呼ぶときの言葉「おっしゃん」と、何か面白い年配の男性を指すときの言葉「おっしゃん」の両方の性格を兼ね備えた感じがしてきました。このタイプの特徴は、気さくで気安くておせっかい、そして風変わりでなにか面白味があり、記憶に残る人が多いことです。憎めない。ふとその人の存在を思うと、気持ちが楽になるようなことってありませんか。
この僧との出会いで芭蕉が一つ達観したとがうかがえる記述があります。三段落の末尾「世の常に一めぐりも大きに見えて、ふつつかなる蒔絵をしたり。都の人は、かかるものは風情なしとて、手にも触れざりけるに、思ひもかけぬ興に入りて、晴碗玉卮の心地せらるも所がらなり」。先に紹介した僧との一連のやりとりがあって楽しくなり、酒を飲もうと思って宿から出された杯は大きく、田舎っぽい蒔繪が施されているだけど、それが中国の美しい磁器にも見えたという意味です。田舎のものが見方次第で美しく見える、地域の魅力を再発見する現代のものの見方に通じます。
酒を酌み交わす直前には「とてもまぎれたる月影の壁の破れより木の間がくれにさし入りて、引板の音、鹿追ふ声、ところどころに聞えける。まことにかなしき秋の心、ここに尽くせり」と、月の光が穴のあいた壁から差し込んでいるのに気づき、その風情への感動を披露しています。道心の僧の「俗」と月明かりの「聖」のコントラストが妙で、こんなところにこそ真実の美があるという低い目線からの美を発見しているように思えます。
道心の僧に負けず劣らず面白いのが「奴僕」です。芭蕉に同行したのは弟子の越人ともう一人、芭蕉の身の世話をする役目がおり、それが原文では「奴僕」と書かれているのですが、この奴僕は権七という名前だったともされ、人柄はおおらかだったようです。木曽山中の崖が怖くて芭蕉が馬に乗れないので代わりに権七を乗せたら、権七は怖がるどころか居眠りをするほどでした。
芭蕉は権七のその姿からも一つ達観しました―「仏の御心に衆生のうき世を見給うもかかる事にやと無常迅速のいそがはしさもわが身にかへり見られて阿波の鳴門は波風もなかりけり」。文末の「阿波の鳴門」は現在の徳島県鳴門市と兵庫県の淡路島との間の鳴門海峡のこと。海面差が大きいので渦巻きが起きることで知られますが、芭蕉は木曽の山越えを道心の僧や奴僕たちとすることで人生の危うさなど仏教の教えが一つ一つ納得でき、こうした旅の経験をすれば、鳴門海峡も波が立っていないくらい平穏な状態に見える言っているような気がします。芭蕉は、道心の僧など旅の偶然の出会いや見聞を大事にしていけば、何も怖くはない、それが自分の文芸の確立には欠かせないと確信したかもしれません。
自分で歩いて完成
長楽寺周辺で月見をして作った「俤や姨ひとりなく月の友」の句は、このエッセーの後に添えられているだけで、当地を歩いた際の風情は記していません(俤句についてはシリーズ76、80を参照)。越えた峠の一つに「猿が馬場」の名前を挙げているくらいです。最初は残念だったのですが、芭蕉にはさらしな・姨捨についてだけを記した俳文「更科姨捨月之弁」(同81、82を参照)が別にあるので、あえて記さなかったかもとも思うようになりました。「更科紀行」で描かれていない道中の世界は、読者が自分で歩き自分なりに作ればいいのではと思います。幸い、芭蕉が歩いた善光寺街道と姨捨近道が整備されています(同95を参照)。
その世界をたっぷり描き出したのが、ずずき大和さんの「まんが松尾芭蕉の更科紀行」です。中段の絵は中央が芭蕉、右が道心の僧、芭蕉の左が越人、居眠りをしているのが奴僕の権七です。道心の僧の話にやられて句作ができないでいる場面です。吹き出しの言葉も面白いです。
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