江戸時代から明治に変わり日本各地の為政者は、新たな地域づくりを迫られました。大きな仕事が小学校の建設です。新しい村名を更級村にするのにリーダーシップをとった塚田小右衛門(雅丈)さんは初代村長を辞めた後ですが、そのことに大きな関心がありました。今の更級小校舎の前身である木造の本格校舎を、現在の大字羽尾に造るに際しては大変だったようです。ひ孫のご子孫、塚田せつ子さん宅に伝わる雅丈さん直筆のノートがそのことをよく教えてくれます。
資金の目途つかず
雅丈さんは村長を辞した後の明治34年(1901)、53歳のとき、未就学児童の就学指導や学校財産の充実など担う学務委員を勤めていました。新年元旦、挨拶を子どもたちだけでなく村の当局者や村議会議員ら大人にもしたのですが、その際の話を雅丈さんが書き残した原稿が右下の写真です。この中で特に印象的なのは校舎の本格建設にあたっては「諸君、私心を廃棄して余の訴ふるところを採用せよ」(上段の黄色の傍線)という一節です。自分のことばかり考えないで全体の利益を考えてほしいと熱心に協力を呼びかけたのです。
就学率が上がった上、現在の中学にあたる高等科も併設されて子どもの数が増え、明治初期の突貫工事で建てた校舎は狭くなっていました。更級小創立百周年記念誌「さらしなの里」によると、この2年前に村議会が二階建ての本校舎の建設を決めたのですが、資金の目途がつかず時間がたっていました。
当時、学校の建設資金や教員の給与は大半が村民の税金と寄付金で賄われていました。家庭になかなか余裕がないのはもちろんですが、校地が村の北に偏っていたことも影響していたのではと思います。それでも新しい時代に必要な事業は自分や家族を犠牲にしてでもやらなければならない―そんな気概と覚悟が村長には求められました。雅丈さんは冠着山はその名を吉野と争ヘる観月の勝地(上段の黄線)に造るのだから、校舎の本格建設にはそうした献身、犠牲精神を注ぐに値するという趣旨のことを説いています。桜の花で知られる奈良県の吉野山(2004年、世界遺産に登録、。シリーズ58参照)と同様に古来、歌詠み人のあこがれだった姨捨山は冠着山、そんな由緒と風景美に富んだ里の人間なんだから…という訴えです。
挨拶の中で雅丈さんはさらに訴えを繰り返しています―余は謹みて哀惜をもって諸君に乞わんとす。諸君はそれ名誉の人なり。名誉を重んずれば協同一致、私心を捨て校舎を建築して教育上の障害を排除することを当局者に望まん(下段の黄線)。都人にとってとても大事な里だったのだから、更級村という名前に村民も当局者も誇りをもって事に当たってほしいと重ねて呼びかけたのでした。
雅丈さんがそこまで熱くなったのは、明治34四年が西暦だと1901年、20世紀の幕開けです。前年の11月には姨捨駅が開業し、蒸気機関車が煙と爆音を響かせて更級村の上方を行き来していました。それは新しい時代を実感させたと思います。
雅丈さんはまた、自分が村長を辞めた後に起きた日清戦争や赤痢の流行による多数の死者への対応など難局をよくしのいでくれたと、歴代の村長さんたちの功績を顕彰しています。その上で明治34年時点での村長、大谷銀兵衛さんに「君の一大名誉を後世に記録する好時期に隆会せり」と、本校舎建築への奮起を促しています。結果的に約一年後、必要な村民の寄付金が集まり、明治36年建築されました。豊城啓次さんが村長の時代です。
晩年も学務委員に
元旦にこのような会合が開かれたのは、戦前は天皇が現人神で統帥権を持つ国だったからです。四大節という皇室・天皇をめぐる重要な行事で村人が集まって祝う日が年に四回あり、元旦もその一つでした。まだ地球温暖化という事態とは無縁な時代でしたから、寒さは半端ではなかったようです。昭和一桁生まれくらいまでの方は、そのつらさの記憶があるようです。
雅丈さんの話を聞いた当時の子どもたちは、1890年前後の生まれですから、もう存命の方はいないでしょう。しかし、ひょっとしたら雅丈さんのお話に感化されて自分の生き方のお手本にした人がいたかもしれません。
左の写真は雅丈さんが晩年の大正時代、再び学務委員として校舎の増築に取り組んだときです。約15年前に訴えて建設がなった校舎の充実に再び貢献できて晴れがましかったかもしれません。中央、杖をつく和服姿が雅丈さんです。現在の鉄筋校舎は雅丈さんの手前に建設され、後ろの木造校舎の部分は所は今グランドになっています。
中央の顔写真は雅丈さんの存命中、大正時代までの村長です。上段左端が雅丈さん直後の中村忠右衛門さん、右に順に金井寿作さん、坂田寅治郎さん、宮川源六さん、大谷銀兵衛さん、下段に移り左から豊城啓次さん、中村与五作さん、水井国冶郎さん、矢島五郎兵衛さん、塚田五作さんです。現在の校舎と県道を挟み向かいにある更級コミュニティーセンターに掲げられています。同センターは旧更級村役場があった所です。左上部の写真は校地買収と校舎増築を繰り返して出来上がった木造校舎時代の更級小の全景です。
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