更級村初代村長の塚田小右衛門(雅丈)さんが編んだ歌集が、ご子孫の塚田せつ子さんのお宅に伝わっています。幅13センチ、長さ20センチ、現代でいう新書サイズを一回り大きくしたノートで、表紙に「古今姨捨山詩歌集」(下の写真)とタイトルが記されています。全82ページ。さらしな・姨捨をモチーフに、古来、都人や貴人たちが作った和歌に加え、ご自身の詠んだ歌も盛り込まれており、うれしくなりました。
さびしさと充実感
左の写真をご覧ください。末尾の見開きのページにしたためた雅丈さん直筆の歌です。下段の歌の左端には「大正六年元日 塚田雅丈」とあるので、雅丈さんが69歳のときの歌です。75歳で亡くなるので、晩年に詠んだことになります。
明治、大正時代までは今のように漢字とひらがなが明確に使い分けられておらず、漢字も音読みにしてひらがなのように使う変体平仮名がよく使われました。現代人には判読が難しいのですが、書き手の癖を知ればなんとか読めます。以下の句歌は私の解読、解釈です。
上の歌は
人はみないつしか 老いて影なくも世になす業のあとは残れり
人はだれしも年をとり、存在感も薄くなっていくものだが、世の中になした仕事はしっかりと残っている―更級村という村名にするのを主導したこと、古来の冠着山が都の人には姨捨山と認識されていたこと、一流の学者や政治家を招いて村おこしをしたことなど、これまでのシリーズで触れてきた雅丈さんの仕事の数々を思い出せば、この気持ちよくわかるのではないでしょうか。
雅丈さんは70歳を前にして自分の死を明確に意識していたと思います。今でこそ70歳はまだ現役ですが、当時は栄養も豊かではなく肉体労働もきつかったので、「いつ死んでもいいように」という覚悟が求められたと思います。この歌からは、年をとってさびしい気持ちもあるが、やるべきことはみんなやったという充実感も読み取れます。
雅丈さんが一番脂が乗って仕事のできた壮年時代は日清、日露戦争など日本が欧米諸国の植民地になるかもしれないという危機の時代でもありましたから、やらなければいけないこと、考えなければいけないことが多く、時間の経過はとても早く感じたと思います。その気持ちがよくうかがえるのが下段の歌です。
生まれたる我が年月をかずらればはや七十世の春は来にけり
わたしが生きてきた年月を数えてみると、70年。その新年も迎えた。それにしても月日のたつのは早い― 以上の二つの歌は年の始まりに詠む元旦詠ですので、雅丈さんの心境がよく反映しています。雅丈さんはこの歌を作った大正時代、、更級小学校の増築など教育事業に携わります。その前にはさまざまな村おこし、今で言う公共事業に精力的に取り組んだので、残る仕事は教育だという気持ちで新年を迎えたかもしれません。
誠の尊さ
これらの歌の前ページには雅丈さんの人柄が分かる歌がありました。
人はただ誠あること尊けれ富や位のあるもあらずも
人間の一番大事なものは誠心である。地域の人ために一心で尽すことこそが人の評価を決める。財産や地位には関係ない―雅丈さんが人道主義者であったことが分かります。あまたの私財を、村のため、村人のために使ったその原動力はこうした考え方の持ち主だったからです。 更級で見る月のすばらしさを詠んだ歌もあります。
見る月は何処も同じ月なれど景色に富める更級の山
「更級の山」は冠着山のこと。更級という言葉が好きでしょうがない雅丈さんの気持ちがうかがえます。
「古今姨捨山詩歌集」の特徴は古人だけでなく雅丈さんと同時代の人たちの歌もたくさん盛り込んでいることです。県歌「信濃の国」の作詞者の浅井洌(シリーズ18に登場)、「汽笛一声新橋を…」の鉄道唱歌の詞を作った大和田建樹(同51)、古来の姨捨山は冠着山であったことを論証した「姨捨山考」の著者佐藤寛(同30)…。冠着山の復権運動に協力してもらった人たちの記念歌集とも言えます。
大あくびして大往生
もう一度晩年の雅丈さんについてです。雅丈さんの生きた時代を直接知っている方のお話に触れることができました。シリーズ54で登場していただ雅丈さんのお孫さん、塚田浅江さんです。戸倉公民館長をお勤めだった竹内長生さんが公民館報で更級地区(旧更級村)の偉人の一人として雅丈さんを取り上げたのですが、その中に雅丈さんについての記憶を浅江さんが語った記事があります。
幼かった浅江さんの目から見ると、雅丈さんは白髪と顎鬚があり、どことなく気品がありました。一日の大半は執筆・思索・読書・散歩。浅江さんは雅丈さんと話をするのが好きで、人の持つべき心の示唆を受けたといいます。雅丈さんは多くの友人と交際しており、使い走りをすると「おおよくした」とよくねぎらってくれたそうです。中央の写真はせつ子さんのお宅の座敷に掲げられた雅丈さんの肖像画です。シリーズ53は雅丈さんをカメラで撮った写真ですが、これは画です。浅江さんの目に映った顎鬚の雅丈さんに近いと思います。
臨終のときの様子についてもシリーズ53で紹介しましたが、印象的なのでもう一度記します。雅丈さんは普段と変わりない朝を迎え、お昼ご飯を食べた後、シーツのしわまでのばした布団の上に気持ちよく仰向けになり、「大あくびをして大往生をとげた」そうです。「古今姨捨山詩歌集」を編んでから5年後、大正11年(1922)、9月3日のことでした(浅江さんは2000年、90歳でお亡くなりになりました)。 右下の写真は「古今姨捨山詩歌集」に掲げられたトップの歌、古今和歌集収載の「わが心慰めかねる更級や姨捨山に照る月を見て」です。 画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。