旧更級村(現長野県千曲市更級地区)の初代村長、塚田小右衛門(雅丈)さんがお作りになった村の迎賓館とも言える建物「塚田館」の写真が残っています。ご子孫の塚田せつ子さんのお宅に受け継がれ、せつ子さんの許可をいただいてここに掲載しました。
平安から江戸時代前の中世まで姨捨山は、現在の長楽寺近辺ではなく冠着山と認識されていたことなどを明らかにするため、小右衛門さんが中央の学者や有力政治家らを招いて熱心に説いていたことは聞いていたのですが、その場に使われた建物の写真を見たのは初めてです。
左の写真は、塚田館の2階の座敷です。百畳あったと言われていますが、数えられるだけで畳が60枚以上ありますので、あながち誇張ではありません。奥の床の間の柱には、虫眼鏡で見たら、「近衛篤麿君歓迎会場」と筆で書かれた和紙が張ってあります。
千曲市磯部地区にお住まいの郷土史研究家、高野六雄さんが小右衛門さんの業績についてお書きになった論文には、小右衛門さんは篤麿らとの政談会を「塚田宅の新座敷」で」明治34年(1901年)11月6日開いたとありますから、この写真はその日に撮影されたものです。
近衛篤麿は昭和の初期、総理大臣を勤めた近衛文麿のお父さんで、当時は貴族院議員を勤めていました。中央の超有力政治家と小右衛門さんの会談の内容、想像するだけでわくわくします。座卓でポーズを取っている男性はだれでしょうか。
小右衛門さんはほかに「汽笛一声新橋を…」の歌詞で始まる鉄道唱歌の作詞者の大和田建樹ら多数の有識者を当地に招きました(シリーズ51を参照)。これらの人たちの歓待の場としても塚田館が使われたと思われます。手前の額は冠着山とその麓に広がる里の風景、左には階下につながる階段が見えます。
右下の写真は、塚田館の外観です。現在の高村商店さん(羽尾地区)のお屋敷の上側にあり、塚田せつ子さんのお宅と姨捨駅につながる県道の挟んで向かい側、今はりんご畑のところにありました。当時、小右衛門さんのお宅には道沿いに酒蔵があったので、その屋根辺りから撮影したものと思われます。
土壁を白く塗り、石垣をしっかり築いた大層堅固な造りです。2階の内部が左上の写真。1階はなんだったのでしょうか。
塚田せつ子さんにこれらの写真を見せてもらう際、せつ子さんの親戚でいらっしゃる塚田正志さんもご一緒していただきました。別の写真に石垣の前に並ぶ若い娘たちの集合記念写真があるので、一階は機織りなどの場として使われていたのではないかと、塚田正志さんは推測します。当時、機織りなど蚕が作り出す絹糸は地域の一番の現金収入をもたらす産業でした。外観を写した写真の道路側の石垣に建て掛けてあるのが、蚕に桑の葉を食べさせる床とみられることからの塚田正志さんの推測です。
中央の写真は、大正8年(1919)、羽尾地区・郷嶺山にある観月殿の隣に「姨捨山之碑」(写真の楕円内、シリーズ53を参照)を建てた人たちが、塚田館の前庭でそろい踏みしたときのものです。明治から冠着山の復権運動に取り組んだ成果を形にした記念碑です。木々の後ろに雄沢川が流れています。最前列中央やや右が塚田小右衛門さん。写真の裏には建碑にかかわった村人の名前がすべて書いてあります。せつ子さんは、塚田館には学校の先生たちもよく泊りに来ていたと伝え聞いています。
塚田館は、昭和になって車など交通量が多くなるとともに道の拡幅工事で取り壊されてしまいました。建材などは長野県佐久地方の方に引き取られていったという話もあるそうです。塚田館についての文献、資料はとても少ないのが実情です。ご存知の方はお知らせください。
なお初代更級村村長の塚田さんのお名前を言うときに「小右衛門」「雅丈」両方ありますが、小右衛門は襲名で雅丈が独自の名前です。落語家が先代の名前を襲名するのと同じように跡継ぎの意味があります。小右衛門だけだと、いつの時期の誰か分かりにくいので、雅丈という独自の名前を持っていました。公文書などでは小右衛門が、私的な文書には雅丈の名前がよく使われました。
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