77号・俤句に触発された伝奇小説家

  芭蕉が当地で詠んだ代表句「俤(おもかげ)や姨(おば)ひとりなく月の友」に強く触発された作家がいます。明治20年(1887)、長野県茅野市に生まれた国枝史郎。後に江戸川乱歩らが活躍する幻想的な時代小説「伝奇小説」の開拓者の一人で、大正時代末ごろに発表した短編「芭蕉と幽霊」が、「俤句」を一つの物語にしています。「更科紀行」を扱った数少ない作品で、内容も当地の歴史や風土を濃く反映させたものです。
 70年間待ったが…
 舞台は現在の長野市上篠ノ井地区。江戸時代は江戸と越後、北陸をつなぐ北国街道と、京の都など関西、名古屋方面からの善光寺参詣者のルートだった善光寺街道が交差する「篠ノ井追分」と呼ばれた地域で、かつては更級郡に属していました。宿場もあり、明治までは旅人で大変にぎわったところでした。中央の絵は、江戸時代に作られた観光ガイドブック「善光寺名所図絵」に載っている追分です。交差点にはお茶屋さんがあり、旅人でにぎわっている様子を描いています。
 すぐ近くを千曲川が大きく蛇行し、渡し場もあって宿からもその流れを望むことができたと思われます。
 お話は芭蕉が美濃(岐阜県)を旅立って木曽路を通り、姨捨山の月を見て、次は千曲川の川面に映る月明かりを見るために投宿という設定です。そこで、芭蕉は宿泊客が多かったので、眺めが望めない部屋に通されたのですが、月が出たころを見計らって月明かりを受ける宿二階の千曲川側の廊下に出ます。
 すると、そこには先に白髪の老女がいました。月明かりの方に目を凝らすと、舟が近づいてきてやがて宿の脇にとまり、老女に小箱を差し出します。中には手紙が入っており、老女は70年もこのときをまった、愛しいあの方の消息がようやく手に入ったと感激し、年老いた船頭に感謝します。そして舟はまた月明かりの方へ返って行きます。
 老女は月明かりを使って中にある手紙を読むのですが、そこには夫の戦死の知らせが。老女は肩を振るわせて泣きむせびます。
 そのとき、芭蕉が詠んだのが「俤や姨ひとりなく月の友」。それまで、あまりにもさらしな・姨捨に風情がありすぎて一句も詠めないでいた芭蕉が初めて言葉にできた句でした。しかし、芭蕉が我に帰ると、老婆の姿はなく、文箱だけが残されて…。
 地政学的に重要地帯
 悲恋の物語です。
 お話はさらに続きます。翌朝、芭蕉が宿の主人にこのことを話すと、「実は…」と次のように話します。
 昔、千曲川の流域を戦場とするの戦いがあり、一方の大将のの花嫁が愛しい夫が凱旋するのを城の望楼から眺めて待っていた。しかし、帰って来ず、70年目の十六夜の夜、使者が夫の消息を伝えてきたが、その中で「相手の大将との一騎打ちで深手を負ったのでこの手紙が最後」と書いてあった。
 それを悲しんで花嫁は望楼から身を投げて死んでしまった。その望楼がこのあたりにあったということを明かします。
 この宿の主人の話を読んでいてすぐ思いつくのは武田信玄と上杉謙信の川中島合戦です。両大将の一騎打ちはよく知られています。同合戦も十数年にわたる長い戦いで、篠ノ井宿辺りではは初期の合戦が繰り広げられました。芭蕉が生きた時代から百年くらい前のことなので物語の時代設定も自然です。大正時代の読者には現代の私たち以上に強烈に意識されたと思いますが、国枝の頭の中にはもっと昔にこの一帯を舞台に展開した二つの合戦のことがあったと思います。
 一つは、木曽義仲が京の都に上るとき起きた「横田河原の合戦」です。義仲は中山道ではなく、信濃の国を北上、北陸ルートで京に入るのですが、千曲川沿いを進軍し、義仲の属する源氏に敵対していた平家の親衛軍を撃破しました、篠ノ井追分近くにある現在の長野市横田地区ではないかとされています(ここもかつて更級郡でした)。その様子は「祇園精舎の鐘の音…」の文言で有名な「平家物語」でも大部をさいて紹介されています。
 もう一つは「大塔合戦」。平家滅亡から二百数十年後の室町時代、幕府が信濃を支配するため送り込んだ武家官僚が尊大で、土着の武士たちがそれをよく思わず、追い返します。現在につながる信州人気質を感じさせる合戦です。
 このように篠ノ井追分一帯は、交通の要衝、悪く言えば人と人がぶつかる場所でした。信濃の中でも地政学的にとても重要なところでした。
 木曽でも老女の面影
 国枝の執筆活動は、新聞記者や演劇の脚本の仕事を経て30歳後半から本格化し、木曽にも住んだことがありました。「蔦葛木曽桟」という長編などたくさんの作品を送り出し、その博学ぶりには驚きます。「芭蕉と幽霊」は千曲川のこの一帯の歴史をふまえて構想したと考えておかしくはありません。
 「芭蕉と幽霊」には後編があります。更科への旅を終えて江戸に戻った後、また旅情に誘われて、木曽に行きます。そのときの宿の枕元で篠ノ井の宿で出会った老女がが立っているの見ます。よく見ると、それは天井近くに掛かっているお面なのですが、宿主は先祖から伝わるもので、その先祖は室町幕府の時代には更科の地を領していた国司だという伝説があるという話で終わります。遠い時代と空間を一息に行き来させる幻想的な物語です。更科と老女の相性の良さを感じます。
 「芭蕉と幽霊」は作品社刊行の「国枝史郎伝奇小説短編集成、第1巻(大正11〜昭和2年)」の中に収載されていました。国枝は三島由紀夫も高く評価した小説家だそうです。
 左の写真は、北国街道沿いの篠ノ井宿の手前、屋代宿との間にあたる現在の千曲川の様子です。サイクリングロードになっている堤防上から撮影しました。奥の山が冠着山(姨捨山)で左の鉄橋が新幹線です。この辺りに渡し場があり、明治天皇が長野に来たときは篠ノ井宿側の渡し場のたもとにある軻良根古神社の宮司らが板に載せて担いで渡ってもらったそうです。
 右の写真はちょうどその反対、振り返って見た追分の光景です。左の石碑の先に軻良根古神社があります。追分の絵の真ん中「右京いせ道 左江戸街道」の文字が刻まれた道しるべ辺りには現在、篠ノ井追分の顕彰碑が建っています。

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