44号・掛け軸に残る江戸の偉人の交流

 江戸幕末から明治初めにかけ、当地を世に知らしめる貢献をしたお二人の交流を示す掛け軸があります。お二人というのは、一人は羽織などの高級品に使われた織物「更級斜子」の考案者であるお政さんこと、塚田政子さん、もう一方は佐良志奈神社から上山田地区に崖沿いを走る「明治新道」を切り開いた、芝原地区生まれの中村林左衛門さん。お政さんのご子孫である羽尾地区在住の塚田重晴さんのお宅に、その掛け軸が伝わっています。
 現金収入もたらす
 和服に使われる着物の織りの基本は、縦横それぞれの糸を2本並べて織るものですが、斜子は2本より多く並べて織りました、織り目が普通の着物より大きく魚の卵のように粒だって見えるところから「魚子」とも書かれます。少し厚めの生地になって織り目が浮かんだり沈んだりという変化があるため、浮かんだ部分には光が反射してキラキラする感じがします。
 斜子にはまた、生斜子と練斜子の2種類があります。生斜子は縒った糸をそのまま使いますが、練り斜子は、糸を一度、お湯で煮て、その糸に葛などの糊をつけて織ります。最終的にはぬるま湯で糊抜きをするのですが、これによって布面はふっくらしなやかで光沢がでるのだそうです。更級斜子の多くはこの練斜子で、かける手間も多いので高級品でした。
 この技術を考案したが寛政10年(1798)生まれのお政さん。10代のころ、自宅を訪ねてきた男性の着物がきれいだったので、切れ地を分けてもらい、仕組みを解明したとされます。
 斜子という織り方は江戸時代前に始まっていましたが、技術は全国には広まっていなかったようです。この男性が着ていたものが斜子織りだったと考えられ、お政さんはその切れ地の織り方を研究し、地域の人たちに教え広めたのです。
 やがてお政さんの住む羽尾だけでなく、芝原、若宮、須坂にも普及して旧更級村一帯をうるおしました。絹糸を生み出す蚕は、それまでは畦や山に植えていた桑の葉をえさにして細々と育てていましたが、田畑にも植えるようになり、大きな現金収入になっていったと、お政さんの功績を明らかにした郷土史家の塚田哲男さんはおっしゃっています。(更級斜子についてさらに詳しくはシリーズ7号をご覧ください)
 動脈をつくる
 中村林左衛門さんはお政さんより7年遅い文化2年(1805)の生まれ。更級地区と上山田地区は八王子山の万治峠越えでしか行き来できなかったため、林左衛門さんが発起人となって多くの人から寄付金を集め明治8年(1875)、八王子山の崖の開削に取りかかり、3年後の明治11年に開通しました。明治になってできた道なので「明治新道」と呼ばれました。
 ご子孫の中村亀幸さんご夫妻にお話をうかがいました。中村さんのお宅は江戸幕末、蚕の卵、いわゆる蚕種をつくっていました。絹糸と蚕種が海外への輸出品の代表格で全国的に養蚕が花形産業だった時代です。お政さんが技術を考案した更級斜子も当地で育った蚕の吐き出す糸がもとになっているので、お政さんの影響も受け、蚕の飼育を盛んにするようになっていたかもしれません。
 蚕のえさとなる桑の葉を栽培する畑が八王子山を越えた上山田地区にあり、林左衛門さんは子どものころ父親の甚右衛門さんと一緒にかごを背負って芝原地区との間を何度も行き来していたそうです。畑を遠くにつくっていたのは、桑の木が病気にならないよう、あえて遠くにつくる必要があったからと、亀幸さんはおっしゃいます。
 林左衛門さんは学問が好きで、長じると各地に旅をします。年をとってからふるさとにもどり、寺子屋を開き、当地だけでなく更級、埴科両郡域の人たちに読み書きや倫理。道徳を教えました。そして70歳の晩年、子どものころ桑の葉取りに八王子山の峠越えをしていたとき父親の甚右衛門さんが言っていた言葉「この峠の下におまえたちが道を開いてくれ」を思い出し、一念発起しました。峠は険しい坂道のため足を踏み外しけがをする人もいたことから、けが人を出さないためにひと肌脱ぐのを決意したと考えられます。
 若いころに甚右衛門さんのおかげで旅ができたので、恩返しの意味もあったのでしょう。林左衛門さんを発起人とするこの一大プロジェクトはその後、更級郡の産業振興に大きな貢献をします。バス会社の川中島バスが運行を始めた路線の最初が、善光寺と戸倉上山田温泉をつなぐ県道上山田線、大正15年(1926)のことでした。車という新しい大量輸送手段を活用できる動脈をつくってくれたわけです。
 19世紀、江戸時代後半になると、現金収入をもたらす商品作物の栽培が盛んになり、庶民の暮らしもだんだん豊かになってきました。その流れの中で、お政さんは更級斜子を地域の産業に発展させる役割を担い、林左衛門さんは更級斜子を含めた地域の産物や観光客を大量輸送できる道をつくりました。地域起こしの功労者です。
 亀幸さんご夫妻の手前にある文書は、林左衛門さんが各地を旅した際に立ち寄った神社仏閣のご朱印帳などです。北海道から九州までその歩いた地域の広さに驚きました。見聞の広さがうかがえます。
 大事業を終えて
 お政さんと林左衛門さんの交流を示す掛け軸についてです。左の写真がそれです。正座して書物を読んでいる肖像画がお政さんです。最上部に大きな文字で、「経文を読誦なす身のありがたや花の浄土の蓮へおもむく 七十九歳 まさ女」と書かれています。お政さん自身の書でしょうか。お政さんが79歳のとき、生来学問好きだったその人生を、お経を読む姿に描いたのだと思われます。
 そして、その歌と肖像画の間、左から右に斜め6行にわたって書き込まれているのが、林左衛門さんの和歌です。これも林左衛門さんの自筆と思われます。和歌は―
 〈千曲川長きよわひの政刀自と語るもつきぬ春の正言〉
 この歌の左側には明治13年(1880)、春の日にお政さんの家に遊んだときに―という言葉も添えられています。とすると、お政さんは林左衛門さんが訪ねてきたとき82歳。林左衛門さんはお政さんの長寿を千曲川の流れにたとえ、お政さんとたっぷり歓談したのでしょう。「正言」というのはたくさんの砂をいう「真砂」をイメージした掛け言葉かもしれません。
 林左衛門さんはこの歌を書き込んだときの自分の年齢を76歳と記しています。私はこの76歳という年齢に注目しました。明治新道の開通時、林左衛門さんは72歳なので、林左衛門さんは大事業を成し遂げた後、芝原から羽尾のお政さんの家を訪ねたことになります。
 春の陽気のいい日だったのでしょう。語り合ったその場ではどんな話が交わされたのでしょうか。更級斜子、明治新道というお互いのなした仕事を楽しく振り返っていたかもしれません。更級村初代村長となる塚田雅丈さんはこのとき33歳。当時は羽尾村の戸長なので、お二人に同席していた可能性があります。
 お政さんはこの2年後の1882年、林左衛門さんは5年後の85年に亡くなりました。更級村の誕生は両偉人の春の歓談から9年後の1889年です。

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