43号・更級であった川中島合戦

  「川中島合戦」の主要な戦場は旧更級郡です。一番の激しい戦闘で、武田信玄・上杉謙信両大将が一騎打ちしたとも伝わる永禄4年 (1561)の合戦は、現在の長野市八幡原付近。この一帯は旧更級郡小島田村(現長野市小島田地区)です。
 洪水の常襲地帯
 川中島という地域は犀川と千曲川の合流ポイントから南側、上流側に広がる平地をいいます。この地名は鎌倉時代、幕府からこの地に派遣された統治行政官である「守護」を、土着の武士たちが追い出してしまった「大塔合戦」の記述にも出てくるので、少なくとも八百年の歴史があります。合流地点は洪水の常襲地帯でもあり、水に襲われたときは漬からなかったところが川に浮かぶ「島」のように見えたことから、この名がついたと思われます。
  合流地域には現在、大豆島、真島、小島田、青木島などの地名がありますが、これらはいずれも更級郡の村だったところ。今のような堤防はないので、村人たちは一段高いところに村をつくっていました。 
  なぜそんなところに住んでいたのかといえば、それは肥沃の地だったからです。エジプトのナイル川でよく知られるように洪水は上流域から作物にとっての栄養分をたくさん運んでくれるので、耕作には貴重なものでした。ただ、洪水は毎年来るわけではありません。何年か何十年に一度、ときに居住地の高台をも流すような洪水に見舞われたかもしれませんが、そうした危険を負うだけのメリットが一方であった証拠だと思います。
 内陸交通の要所
  川中島の戦いに戻ります。甲斐(現在の山梨県)の武田信玄が信濃の北方、特に川中島の攻略を狙った理由についてです。一つはこうした肥沃の地の生産力を期待したはずです。治水さえしっかりすれば、作物はたくさん期待できます。甲信、つまり山梨、長野両県のなかでは川中島は大きな平野です。水もたくさんあります。当時は今のように耕作されていない葦野原や湿地もいっぱいありましたから、耕地にすれば多量の食糧が手に入ったでしょう。
   二つ目の理由は、善光寺ではないでしょうか。ご本尊の阿弥陀如来への信仰心は京の都まで広まっていました。謙信との戦いを進める上で、信玄は勝利を神仏に祈願し、とても信心深かったと言われています。善光寺を自分の掌中に納めると、阿弥陀如来をはじめ宝物を甲府に持ち出し、「甲斐善光寺」を建立したくらいです。
  もう一つ、信玄は内陸交通路としての信濃の重要さを理解していたかもしれません。室町幕府を開いた足利一族の将軍に統治能力がなくなって各地の有力武士が天下を取ろうとしたのが戦国時代。都から遠いところにいる信玄は関東、蝦夷(東北、北海道)への交通の要所として信濃を押さえる必要を感じたのではないでしょうか。
 実際、徳川家康が天下を統一し江戸幕府を開くとまもなく、碓氷峠から上田、松本、木曾と、信濃の国を通過する中山道を設置し、東西を行き来する内陸交通の一大要路としました。また日本海側も船舶による交易が盛んでしたから、謙信のいる越後や北陸地方への足ががりを信濃でつくりたかったのではないでしょうか。
 そうしたさまざまな思惑を達成できるかどうか、分け目の戦いの場として選ばれたのが川中島、つまり旧更級郡の肥沃の地でした。
 修学旅行で購入
 明治末に作られた川中島合戦図(写真左)を見つけました。大阪の方がお持ちでした。更級郡の大文字が右上端の冠着山のあたりから左下に向け書かれています。これは戦いが旧更級郡の地で繰り広げられたことを強調する構成です。発行所は「長野市の城山館」。「長野市新田町の士族、土屋岩見」という方が発行人です。
 地図が入っている袋の裏面には「修学旅行の際、八幡原の茶店にて求む」と筆書きされています。開通してまもない国鉄中央線に乗って大阪方面から合戦の現場を見ようと学校を挙げてやってきたのだと思います。
 なぜ、そんなに人気があったのか。江戸幕府は軍事、戦争について学ぶ学問として武田信玄の実践や教えをもとにした甲州流を採用しました。武田家滅亡後、臣下の多くを引き入れ、幕藩体制の基礎固めに利用しました。いわばお手本です。幕府を開く前の徳川家康軍を破った武将として信玄が高く評価されていたのも理由です。
 それが影響して川中島合戦に関する出版物や浮世絵が江戸時代、、明治になってもたくさんつくられました。明治時代までは出版業は大阪や京都が盛んでしたので、川中島合戦のお話は相当広まっていたと思われます。
 戦場の村人
 ただ、当の更級の村民はどんな思いでこの合戦を見ていたのでしょうか。戦争、殺し合いです。川中島合戦と呼ばれる戦いは永禄四年のものを含め、1553〜64年。つまり12年もの間、自分の村が戦場になっていたわけです。特に力の弱い農民、女性、子どもたちは大変だったでしょう。
 永禄4年の合戦の舞台になった旧小島田村生まれの岡澤由往さんが、その辺の事情を「むかし戦場になった村」という本のなかで書いていらっしゃいました。お寺などに伝わる文書などから研究したものです。戦場が敵領であれば、その領民も逆徒の手先とみなされ、敵に利益をもたらすようなものは徹底的に破壊尽くすというのが戦いの常だったそうです。神社仏閣もその例外ではなく、炎上する堂舎に入って寺宝を持ち出そうとして焼死した僧の記録もあるそうです。
 一方で住民のたくましさが垣間見れる、川中島合戦をモチーフにした絵が長野市立博物館にありました。和歌山県立博物館所蔵の屏風絵の複製ですが、一部分(写真右)に旧更級郡塩崎村の農民が上杉軍の物資を奪い取って逃げていく姿が描かれているというのです。学芸員の方は、この絵について「このように村人が武装化して攻め込んできた軍隊からものを略奪するというのは史実であるかどうかは分からないものの、村の平和を守ろうとする意識が読み取れて面白い」と分析しています。
 2007年のNHK大河ドラマは武田信玄の軍師、山本勘介の生涯を描く井上靖原作の「風林火山」。川中島合戦もドラマの重要な要素です。作家海音寺潮五郎の「天と地と」で大河ドラマ化されて以来となりました。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。