校舎の姿とその短い歴史を思うと切ない気持ちになるのが、更級中学校です。更級小学校の現在の校長、石井智さんに「更級村立中学校校舎新築記念帳」の存在を教えていただき、その中に挟み込まれた中学校の写真(左)に目が止まりました。無駄のない贅肉のそぎ落とされた清楚さが漂っています。
愛村の情と奉仕で
更級中学校は敗戦後の新しい学校制度のもと昭和22年(1947)に設けられました。開校後 からしばらくは小学校の校舎を改造して使っていたのですが、教室が足りなくなって中学独自の校舎の新築となります。場所は、現在の更級小校庭の東に隣接する寿高原食品さんの倉庫になっているところです。昭和25年4月に建設が始まり、11月に完成しました。
ここは日本で初めて蚕種の海外輸出をしたことでも知られる江戸幕末の志士的商人、大谷幸蔵の屋敷があったところです。校舎新築の計画が持ち上がったころは、りんご畑になっていたそうです。記念帳では当時の水井壽穂更級村村長が「更級教育の発祥となった明治初めの鼎立学校ゆかりの地でもある」と紹介しています。
水井村長はまた、校舎建築の陰には、りんごの経営者である大谷富雄さんをはじめとする耕作者の愛村の情と犠牲的精神があったこと、さらに婦人会や青年団の涙ぐましい奉仕があったとも記しています。完成した校舎は2階建てで、各学年3クラス計9教室と職員室や応接室など、延べ面積は370坪(約1100平方㍍)でした。
3日間の祝賀行事
更級中学校に関係した資料は、小学校にはほとんと残っていないということなので、この記念帳は当時を知るとても貴重なものです。この中で特に印象に残ったのが、校舎建築にあたっての寄付金についてです。巻末には寄付者の名前が列挙されています。村内の世帯のほか、村外在住の村出身者の方々もたくさん名を連ねています。出身者にはシリーズ23号で紹介しました「東京更級会」の方々も含まれています。
そして、驚いたのは、寄付金の総額が建築費の半分以上を占めていることです。総工費は当時の金額で約470万円。村内住民の寄付金の合計が190万円、村外からは52万円です。
当時はまだ、敗戦の痛手から立ち直ろうとしているときです。村税と補助金だけでは新しい建築物をつくれません。各家庭も現金収入が少ない時代でしたから、余計寄付金を出すのが難しかったと思われます。それでも、戦後日本の将来を担う子どもたちのために新しい学校は自分たちでつくる、という意識がみなぎっていたと考えられます。
そうした思いが反映されているのが、校舎竣工後の昭和25年11月15日から3日間にわたって行われた落成祝賀行事です。
初日は、式典、宴会、映画上映。2日目は、小中学校児童生徒の学業発表会、中学校弁論大会、さらに演劇の集い。最終日は中学校を含む全村運動会でした。祝賀期間中は活花の展覧会や農産物の展示・品評会も開かれていたそうです(行事については「戸倉町誌」から)。
別の空気が
シリーズ39号で触れた更級中学校生徒会の機関誌「学友」も、そうした村人たちの期待を背景に生まれたものと思われます。「学友」の発刊は昭和30年度。新中学校校舎建設から5年がたち、ちょうど節目でもあったため、学校側もその期待に応えようと取り組んだのではないでしょうか。
内容には、生徒がつくった詩や俳句、短歌もありました。いくつかを一覧で掲載しました。作者のお名前と学年は記載のままです。現在は、還暦を向かえ、第二の人生を送っていらっしゃる方々です。
更級中学の歴史は短く、上山田、戸倉、五加各地区(いずれも現千曲市)の小学校卒業生も集まる統合中学「戸倉上山田中学校」ができる昭和40年までの14年間だけです。
私は昭和36年(1961)生まれ。小学校に入学したのが同42年ですから、すでに更級中学校舎は閉鎖されていました。しかし、廊下でつながっている校舎には好奇心があり、鍵はかかっていましたが、幾度となく中に入った記憶があります。教科書が山積みされ、とにかく大きな空間で、別の空気が流れているような感じでした。左上の写真のりんご畑のところはグランドで、よく体育をしたり遊んだりしていました。鉄棒が腕を伸ばしても届かないほどとにかく高く、大きくなるのはこういうことなのかと思いました。敷地の一角にそびえる大谷幸蔵の顕彰碑も格好の遊び場でした。
写真中央は校舎の廊下、右は建築に関わった方たちの校舎玄関前での記念撮影です。手前中央の方が当時の水井壽穂・更級村村長です。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。