31号・古の作家を触発し続けた和歌

  当地を全国に知らしめることになった歌が「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」です。これは今から1100年前に編纂(へんさん)された「古今和歌集」に載っている歌です。同和歌集は天皇の命令によって編まれた最初の勅撰和歌集です。歌の意味は、わたしの心はどうにも慰めようがない、姨捨山にかかる月を見ていては、ということです。
 東国経営が背景に
 この歌はその後、「大和物語」をはじめ多くの古典に引用され、数多くの歌人、作家たちを触発してきました。作者について古今和歌集は「よみ人知らず」と記し、だれのた歌なのか分かりません。どのような人がどんな経緯でつくったのでしょうか。
 古今和歌集が編まれたのが905年ですから、それ以前に作られたのはまちがいありません。和歌集には古今和歌集の前に大伴家持が編纂したとされる「万葉集」がありますが、更級と姨捨山をセットにした歌は含まれていません。その万葉集ができたのは奈良時代末の七六〇年ごろ。万葉集の中にも月を読んだ歌はありますので、まだ当時は姨捨や更級は都にはあまり知られておらず、古今和歌集が編まれるまでの約百年の間に有名になったと考えられます。
 その背景には何があるのでしょうか。「朝廷の東国経営があった」と「古今集校本」などで和歌集に詳しい元信州大学教授の滝沢貞夫さんが、その著書「しなの文学夜話」(右の写真)の中で指摘しています。
 万葉集は防人の歌が一つの主要な塊になっていることから分かるように、中国大陸、朝鮮半島の国々に対抗するため朝廷が九州に今の東日本一帯から人を派遣させた時代の歌集です。それに対し、古今和歌集は西国を固めた後の東国経営に取り組んだ時代を経て編纂されました。
 当時は坂上田村麻呂が現在の東北地方以北にあたる蝦夷を征伐する征夷大将軍に任じられ、都から東方の地への関心が高まっていました。東国へのルートは東山道という信濃国を通るものでしたから、信濃の風物や風俗に関する情報が都に運ばれたでしょう。
 また、古今和歌集の編纂後になりますが、延喜式という全国の神社名を記した公文書が編纂されます。800年代には多くの官僚や知識人たちが各地を歩き月を眺めていたでしょう。その中で更級の月が特に心に残った人たちがいたのだと思われます。「わが心」の歌は旅人が詠んだ可能性が大です。
  それが都で評判になって古今和歌集の選者である紀貫之らの耳にも届き、どこのだれが詠んだか分からないが、とても良い歌であるとして歌集に盛り込んだのではないでしょうか。
 女房社会が物語つくった?
 さて、冒頭に記した「触発」についてです。どれだけこの歌が作家たちの創作意欲を掻き立てたかということについてです。古今和歌集の編纂から約50年後の951年に大和物語ができあがり、この物語集の中の一つに「姨捨説話」があります。
   説話は、昔、信濃の国の更級に一人の男がいて、両親と死に別れてからは年取ったおばと一緒に実の親子のように暮らしていたが、男の嫁はこのおばを嫌っており…と始まります。嫁はこのおばを山に捨ててきてくれと夫を責めたため、男は満月の夜、「山のお寺でありがたい法事がある」とおばをだまして山の奥へ連れ出し、おばを置いて帰ってきてしまいました。
 しかし、男は落ち着きません。山あいから現れた月を見て寝ることができず、そのときに歌ったのが「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」。男は非を悔いておばを迎えにいき、以来この山を姨捨山と呼ぶようになった―と説話は締めくくっています。
 この物語が文字に残された最初の姨捨説話です。滝沢貞夫さんは、この物語を作ったのは当時の女房社会だと言います。女房とは天皇の住まいのある宮殿に仕える女性たちのことですが、当時の女房社会は原則として独身者によって構成されていたそうです。結婚している女房もいましたが、夫や息子のことを話題することができない女性だけの社会で、彼女たちの老後は不安に包まれていたそうです。
 滝沢さんは「女房創作説」の根拠として、本当に捨てられるのではなく子の改心で救われる、つまり老後が安定した点を強調するストーリーになっている点も挙げています。女房たちは歌もたしなみ教養もあったので「わが心」の歌も当然知っていたでしょう。
 源氏物語や謡曲「姨捨」でも「わが心」は引用されたり主材になったりして、読者の情感をかきかてるのに大きな役割を担っています。1936年(昭和11)に中村薫さんという方が編纂した「典拠検索名歌辞典」を開くと、「わが心」の歌を引用した古典の数々がほぼ1ページにわたって列挙、紹介されています。これだけ人気のあった歌はほかにあまりないのではないでしょうか。
 月を見ないでは…
 江戸時代の板鼻検校が読んだとされる次の歌は、更級の月へのあこがれの強さをうかがわせます。検校とは視力を失った僧侶のような人のことです。
  わが心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月を見で
 何が違うか? 最後の「見で」は「見ないでは」という意味です。この歌は江戸時代・文化13年(1816)に刊行された「擁書漫筆」によると、板鼻検校が高貴な人と信濃国の姨捨山の麓を過ぎたとき、「ここの月をどう思うか」と聞かれて答えた歌だそうです。
 左の写真は鎌倉時代の歌人、藤原定家が書き写した古今和歌集の中の「わが心」の部分(中央)です。定家は古今和歌集から三百年後に世に出た「新古今和歌集」の選者の一人で、「新古今和歌集」も勅撰和歌集です。古今和歌集を書き写した定家の本は、伊達家に所蔵されていたことから伊達本と呼ばれ、国宝に指定されています。参考までに「わが心」の前後の歌も記します。
 遅くいづる月にもあるかな葦引きの山のあなたも惜しむべらなり(よみ人知らず)
 おほかたは月をもめでじこれぞこの積もれば人の老いとなるもの(なりひらの朝臣)
   藤原定家はシリーズ第1回目で紹介した菅原孝標の娘原作の「更級日記」を書き写した人でもあります。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。