29号・豊城直友さんが刻んだ「更級里」

更旅29

 江戸幕末から明治にかけ日本が欧米諸国の植民地化の危機にさらされる中、当時の佐良志奈神社宮司の豊城直友さんが「更級とは何か」を懸命に考えたのではないかということをシリーズ三回目で紹介しました。
 その直友さんの更級への思い入れをうかがわせるものが境内にありました。諏訪社の(ほこら)です。本殿の後ろ、たくさんある分社の中の一つです。この祠は、裏面の刻字をみると、直友さんが幕末の嘉永7年(1854)に建立したものです。台座には「更級里若宮村」と彫られていました(写真左)。「更級郡」ではなく「更級里」としたところに強烈な更級意識を感じます。
 江戸時代からの御柱
 諏訪社は若宮、芝原、黒彦地区(いずれも現千曲市)生まれの人にとってはなじみが深いものです。御柱です。7年目毎に氏子であるこの三地区の小学生や保育園児とその保護者たちが春先、山から切り出した松を引っ張って諏訪社の両脇に建てるものです。右の写真は前回、2004年の4月10日、御柱を立ち上げるときの様子です。
 切り出す御柱は、芝原と若宮それぞれ1本ずつ、山林所有者の方から提供してもらっています。7年に一度ですから、実際に引けるのは、運が良くて二度、大半の人は一度だけでしょう。私も小学生のとき引いたのを覚えています。引きながら景気づけに歌う木遣りもまたなかなか楽しい文句と節です。
  佐良志奈神社の御柱祭がいつ始まったかについて記録した文書はないのですが、直友さんが諏訪社を建てた江戸幕末までは遡ることができるそうです。
   裏面の刻字の冒頭には「再建」とありますから、直友さんが古くなった社を仕立て直して奉納したものと思われます。そして台座にある「更級里」の文字は、直友さんが残した日記の筆跡と同じものです。「更級里」と石に刻んだ直友さんの思いはどんなものだったのでしょうか。
 延喜式内社
 嘉永7年は直友さんが39歳、油の乗り切ったころです。「戸倉町の歴史年表」などで直友さんが諏訪社を奉納するに至る背景を推測してみます。
    天保7年(1836)、直友さんが21歳のとき、近隣の八幡村(現千曲市)の八幡宮が延喜式内社(えんぎしきないしゃ)の「(たけ)(みず)(わけ)神社(じんじゃ)」の社号を公式に名乗るようになりました。延喜式(えんぎしき)とは平安時代の各地の神社名を記した公文書のことで、延喜式内社とは朝廷に認められた由緒ある神社のことを言います。
 「佐良志奈神社」という社号も延喜式内社の一つですが、最初から対外的にそう名乗っていたわけではないようです。戸倉町誌によると、元禄10年(1697)に松代藩が調査した「堂宮御改帳」では八幡宮と称していますが、宝暦6年(1756)の「神社書上」では佐良志奈神社八幡宮となっているそうです。そして町誌は「おそらくこの間に古昔の延喜式に載る佐良志奈神社を追慕して、このような社名になったのであろう」と推察しています。
 豊城家の古文書目録でも。佐良志奈神社と文書に記すようになるのは1700年代半ばぐらいからです。それまでは八幡宮です。後半になると、八幡宮と佐良志奈神社双方が登場し、1800年代、直友さんの生まれた1815年以降はすべて佐良志奈神社です。
 そして直友さんをして強烈に自分の神社の社号を意識させるきっかけになったのが、嘉永6年(1853)、開国を迫る米国のペリーの浦賀来航ではないかと思われます。その翌年に直友さんは諏訪社を再建奉納しているのです。当時は、古典をひも解いて日本の独自性を探求する国学が盛んでしたので、直友さんも日本という国における自分の神社の独自性について、いやおうなく考えさせられたでしょう。
 受け継がれた執念
 直友さんは諏訪社再建の7年後の文久元年(1861)には、「佐良志奈神社」の文字が刻まれた社標を境内の入り口に建立します。文字は倒幕の中心勢力の一人であった公家の正親町(おおぎまち)三条(さんじょう)(さね)(なる)さんに書いてもらったものだそうです。
 諏訪社の「更級里」と社標の「佐良志奈神社」。直友さんは幕末から明治にかけて自分が仕える神社と当地が「更級」であることを、地域内外にアピールする仕事に取り組んだと言えます。
 直友さんは明治維新後、まもなくの12年(1879)に亡くなります。67歳でした。まだ、維新の成果がどうなるか分からない段階ですから、本人も心配だったでしょう。その遺志を受け継いだのが直友さんの長男、豊雄さんです。
 豊雄さんについてはシリーズ14号で触れたように、更級村初代村長の塚田小右衛門(雅丈)さんとともに更級村という村名を誕生させるための理論家、運動家として活躍し、直友さんの思いを果たしたと言えます。古来、歌に詠まれてきた姨捨山は冠着山であることを論証しようとした豊雄さんの「姨捨山所在考」は一つの集大成です。
 「更級宣言」と言ってもいい諏訪社の「更級里」の刻字。残念ながら、諏訪社の祠は風化と崩壊が激しく、2005年12月、新しい祠に再び再建されました。前の祠は側面にブドウの実や葉などの模様が彫られており、デザインや遊び心に富むもので、今も新社の後ろに置かれています。いずれ境内の土になっていくでしょう。(2006年2月12日記) 画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。