「更級の景観とは何か」と聞かれたら、なんと答えるでしょうか。更級といえば、月、そばの花、姨捨山、棚田、千曲川…。これら更級らしさの特色をこれからも維持していけるでしょうか。景観とはまち並み、まちの風景と言い換えることができます。その大事さを教えてくれたのが「ファスト風土」という言葉を知ったときです。
▽最も不安定な地方
ファスト風土とはベストセラーになっている「下流社会」の著者でもある消費社会研究家、三浦展さんの造語です。ハンバーガーのマクドナルドなどに代表されるファストフードをもじったものです。ファストフードがどこに行っても同じ味の食べ物であるように、ファスト風土とはどこに行っても、その地の歴史や文化が感じられない同じようなまちの風景のことを言います。
三浦さんが特に問題にしているのが、広大な農地に建設されている大型ショッピングセンターです。三浦さんは幼児や少女が被害者となるような最近の主だった犯罪の起きた地域を訪ね歩いてきました。そこで見たものは、どこも同じようなショッピングセンターがある風景だったと言います。豊かな自然や長い歴史を感じさせるまち並みが衰退する代わりに、真新しい道路ができて車が走り、ニュータウンができ、ファミリーレストランやディスカウント店が並ぶ風景です。
人々がひとまとまりの空間にいながらも、どこに住む、なんという名前の人か分からない匿名性が犯罪を誘発するのですが、かつては都市の専売特許だった匿名性が、地方の特に農村部に広まってしまいました。「皮肉なことに古くから都市化している東京は今、日本中で最も安定した地域であり、ファスト風土化した地方はいま最も不安定な地域なのである」と三浦さんは警告しています。
▽屋外にも個室
肥沃の地と言われる善光寺平もファスト風土化しています。オリンピックスタジアム(南長野運動公園)のある長野市篠ノ井東福寺で、大手スーパー「イオン」の出店の是非が議論になっています。信濃毎日新聞(〇五年十一月十八日付、写真下)によると、予定敷地は十九㌶で、店舗面積は七㌶。長野県内で最大だそうです。イオンのショッピングセンターにはさまざまな個店が入り、映画館もあるなどで、一日中そこで遊べるというつくりが特徴です。現在、特に広大な農地のある東北地方で建設が相次いでいます。
東福寺地区は旧更級郡東福寺村です。なんとも歴史を感じさせる地域名です。新聞報道によれば、地元で推進する人たちは、農業の後継者がなかなかいないので農地を有効活用したいと考えているようです。大型ショッピングセンターは事実上、こうした伝統的な地域社会の弱点をついて進出してくるのです。
大型店が郊外にできると、それまで地域の中心部にあった店がつぶれます。そして、子どもはおやつ一個、鉛筆一本を買うにも、親の運転する車で出かけるようになります。今はスモークガラスと言って、外からは中が見えにくい窓の車が多くなっていますから、お互いに知人、ご近所であってもどこのだれかよく分からない暮らしを地域の中心部でもするようになってきています。いわばすべての生活行為が個室の中で行われてしまうようなものです。
▽18号バイパス
更級のファスト風土化を防ぐためには、姨捨地域の棚田の保全は最低限でしょう。幸い旧更埴市(現千曲市)が取り組んだ長楽寺や四十八枚田の保全事業が、さらに「国の重要文化的景観」の選定に向け、拡大発展の方向に進んでいます。重要文化的景観とは〇五年四月施行の改正文化財保護法に基づく新しい文化財保護制度で、選ばれると管理や復旧に必要な経費の一部について国から補助が出ます。
一般的に「姨捨の棚田」と呼ばれている面積は二十五㌶。このうち三・二㌶が「名勝」に指定されていますが、千曲市は周辺を含めた七十五㌶を重要文化的景観にしたいということです。
棚田と同様に大事なのが、千曲川に連続する平地です。千曲川沿いが重要です。山と平がセットでこそ更級の景観です。
しかし、心配があります。現在、八幡地区まで進んできた国道18号バイパスです。このバイパスは片道2車線計4車線で八幡からさらに峰、代を通って旧更級村を通過します。旧更級村に入ってからは千曲川の堤防沿いの農地を走ります。東福寺地区がそうであるようにショッピングセンターは新しいバイパス沿いに出店します。沿道、周辺のファスト風土化が懸念されます。
▽社会はまち並み
ただ、重要文化的景観の指定もバイパスも建設されないのは、農業に将来性を感じていない地権者にとっては迷惑になるケースもあります。「土地の有効活用」と「更級の景観」を両立させるにはどうしたらいいのでしょうか。山と平が景観を保持してこそ、空の月も輝きます。感性を育む空間と言えるでしょう。更級の子どもたちが生きやすい地域にしておくためにも必要です。
そもそも地域社会とは何でしょうか。まち並みと言っていいように思います。高度経済成長期の昭和三十年代、人の移動が歩きや自転車、バスだった時代は、地域の人たちの暮らす姿が見て取れ、言葉や笑顔をまちなかで日常的に交わしていました。みんなが明日への希望を共有していました。そうした人たちの暮らしの営みが地域社会です。
しかし、高度経済成長が昭和四十年代末に終わってから三十年。日本人の暮らしは東福寺地区のショッピングセンター問題に象徴されるように、一変しました。農地所有者が希望の持てるような農業政策、地域に暮らすこと自体に誇りを持てるようなまちづくりが求められています。
明治から大正、戦後にはそんな村づくりに取り組んだ人たちが旧更級郡にもたくさんいらっしゃいました。その結果、いくつもの独自色のある村のまち並みが姿を見せ、それが更級の景観をつくりました。先人の取り組みを知る年配の人たちが現在もまだ多く存命でいらっしゃいます。先人の生き様を記録に残すことも含め、もうひと仕事してもらいたいと思います。