24号・恋をかなえた姨捨駅のスイッチバック

  姨捨駅を利用していた旧更級村(現千曲市)在住の男性から「スイッチバックの恋」という話を聞くことができました。長野市方面の高校に通っていたその男性は電車の中で、別の高校に通う好きな女子がいて帰宅電車の中でよく一緒になりました。声を掛けようかと思うのですが恥ずかしくてなかなかできません。彼女は冠着トンネルを抜けたところの山村に住んでいます。稲荷山からの坂を上りながら、なんとかしなくてはと焦っていると電車は一度止まり、姨捨駅へと向きを変えます。この瞬間と折り返しの時間が彼に告白の勇気を与えました。このお二人はその後、ご夫婦となり、現在はお孫さんもいらっしゃいます。  以下は、そのことも紹介した姨捨駅についての更級への旅新聞の記事です。
                                               
 千曲市姨捨地区にある姨捨駅の設置要望はかなり強かったと思っていました。開業は1900年(明治33)。鉄道が人と物資だけでなく文化も運び、駅はその中継場所であることから全国各地で誘致合戦が激しかった時代です。でも、姨捨駅の場合は必ずしもそうではなかったようです。更級埴科地方誌」の第4巻現代編の解説を紹介します―
 給水所
 同誌は姨捨駅の設置理由について、篠ノ井線の稲荷山駅から冠着トンネルまでは急勾配で、稲荷山駅だけでは列車交換に不便であることと列車への給水のためという運転技術上の必要性によって設置された、と記しています。
  当時は蒸気機関車ですから、水は運行に絶対的に必要でした。さらに北信と中南信をつなぐ冠着トンネルを抜けるまでの急坂を思えば、平地を走るときよりもずっと大きなパワーが要ります。石炭の熱量を動力に変える大量の水がどうしても必要でした。
 ではどこに水があるか。二つ考えられます。一つは大池から長楽寺脇を通って八幡地区に流れ下る更級川。ただ、これは駅舎まで距離があるので運ぶ労力がかなりかかります。もう一つは桜清水。長野市を訪ねた明治天皇の飲料水としても供され、名水として知られた湧き水です。水が湧いている所は、駅舎の上方ですから、管を引いておけば自然に水がたまります。篠ノ井線は姨捨駅開業に先立って篠ノ井―西条間で開通していましたが、姨捨駅には開業前も汽車が水をもらうため立ち寄っていたそうです。
 駅舎の建設の前、この一帯には民家はまったくなく、地元の誘致運動も農家の反対も特にはなかったそうです。周辺集落から駅への連絡路もほとんどなく、八幡、峰、羽尾からでさえ農道で結ばれたにすぎませんでした。
  山のにぎわい
 以上が「更級埴科地方誌」の記述です。しかし、ここに駅を開設することに期待を持った人はたくさんいたはずです。観月の名所であった長楽寺はすぐ下ですし、1901年には長野―姨捨間に臨時観月列車が仕立てられたことがその証拠でしょう。「姨捨山の文学」(矢羽勝幸著、信濃毎日新聞社刊)が、明治43年のころの中秋の名月のにぎわいについて長野市出身の会津秀雄氏が記した文章を紹介しています。とても生き生きした内容です。少し引用してみます。
  列車は月見の客で満員だ。姨捨駅へ着くと、我先飛び降り細道を走り、長楽寺への参詣はそこそこに済ませ、更に走り月見の場所取りで大変なさわぎ。農家の人達はすかさず貸し席を出してキャッシュで貸して下さる。列車の上り下りの到着毎に同じさわぎである。各自グループの席が定まると、すぐ酒が始まる。農家の人達は一家総出で「月見団子・月見餅・田楽は如何が」と売りに来る。(中略)午後三時頃は全山満員となる。私共は月見の記念にと、色紙短冊を求めるべくあたりを見ると、文人墨客の諸先生はそれぞれ赤毛氈を展べて適当な木箱を持参して、俄か文机をつくり、色紙短冊を並べておいでになる…
 戸倉上山田温泉も開湯して間もないころで、顧客のにぎわいを求めていました。旧更級村も郡役所からの資金も得て姨捨につながる道の整備をしています。その道に1927年(昭和2)、戸倉上山田温泉からの定期バスの運行が始まります。運行会社の川中島自動車五十年誌には「五人乗り三両。一日九往復」と記されています。まだ今のような大型バスではなく、また道幅も狭いので、五人乗りの車両を一度に3台走らせたということかと思われます。姨捨駅の乗降客の多さがうかがえます。
 銀座
 姨捨駅を語るときに欠かせないのが「スイッチバック」です。スイッチバックとは終着駅に向かって前進するために必要な折り返し運転のことで、大きく分けて二つのタイプがあります。
 一つは急坂を上るために軌道をジグザグ型に設け、角の部分で向きを変えるものです。もう一つは線路が単線の場合で、途中で一カ所軌道をX字に交差させる退避型です。一方の列車が本線を外れ対向列車の通過を待ち、通過後に軌道を後退して本線に戻り、再発進する仕組みになっています。
 姨捨駅との関係で言われるスイッチバッグはジグザグ型です。実はもう二つのスイッチバックが姨捨駅の前後の桑原と羽尾両地区それぞれにあります。この区間は軌道が単線なので列車のすれ違いを目的にした退避型です。姨捨駅周辺は現在の日本でスイッチバック最高度密度区間で、「スイッチバック銀座」とも呼ばれているようです。
 軌道が複線化すれば退避型は不要になりますが、篠ノ井線とほぼ平行して高速道路が走っているので、運行本数が今後、劇的に増えることはないでしょう。ゆっくり時間をかけての更級の旅にはもってこいの条件を備えたのが篠ノ井線です。
 告白の勇気
 姨捨駅を利用していた旧更級村在住の男性から「スイッチバックの恋」という話を聞くことができました。長野市方面の高校に通っていたその男性は電車の中で別の高校に通う好きな女子がいて帰宅電車の中でよく一緒になりました。声を掛けようかと思うのですが恥ずかしくてなかなかできない。彼女は冠着トンネルを抜けたところにある山村に住んでいます。
 稲荷山からの坂を上りながら、なんとかしなくてはと焦っていると電車は一度止まり、姨捨駅へと向きを変えます。この瞬間と折り返しの時間が彼に告白の勇気を与えました。このお二人はその後、ご夫婦となり、現在は還暦を過ぎてお孫さんもいらっしゃいます。
 姨捨駅は今、無人駅ですが、駅舎は今も手入れが行き届き、たたずんでいます。改築された昭和9年(1934)のままに残されています。博物館にしたいという人たちもいるそうです。鏡台山方面から上がってくる月だけでなく、対向車(者)をもじっくり待ってあげるというのは、高齢社会にふさわしいスポットのような気がします。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。