今から千年前に書かれた「更級日記」の作者は「菅原孝標の娘」という女性であることから、平安時代の女性文学の代表作の一つとされます。この作者である菅原孝標の娘への共感を最も強く表現したのが作家の堀辰雄です。
少年の愛読書
堀の作品としては、八ヶ岳の裾野にある療養所を舞台に死を自覚した者の目を通して自然や風景の美しさを描いた「風立ちぬ」がよく知られています。山口百恵と三浦友和の黄金コンビで映画にもなりました。
大正十二年(一九二三)に軽井沢を初訪問してその雰囲気に引かれ、その後、追分を拠点に、独特のスタイルで日本近代文学の一翼を担います。川端康成もその才能を評価しました。堀自身も肺結核を患う病身だったことが堀の文学世界の基調を作ったと思われます。
その堀が「風立ちぬ」のほか「美しい村」「聖家族」「「大和路・信濃路」など一連の代表作を書き終えた後の昭和十六年(一九四一)、姨捨山付近を訪ね、エッセー「姨捨記」を発表しました。その中で更級日記への思いを次のように記しています。
「更級日記は私の少年の日からの愛読書であった。(中略)読みすすんでいるうちに、遂に或日そのかすかな枯れたような匂に中から突然、ひとりの古い日本の女の姿が一つの鮮やかな心像として浮かんで来だした」
「古い日本の女性」とは「日本の女の誰でも殆ど宿命的にもっている夢の純粋さ、その夢を夢と知ってしかもなほ夢みつつ、最初から詮の姿態をとって人生を受け入れようとする」女性のことで、「その生き方の素直さというものを教えてくれたのである」と堀は続けています。
女性のユニークな視点
確かに更級日記には源氏物語のような大きなスキャンダルや事件はありません。「晩年の孤独な自分の境遇を嘆いただけ」と、菅原孝標の娘を評価しない声もありますが、それだけで切って捨てるのは間違いです。
女性解放運動の先駆者、平塚らいちょうが明治末、文芸誌「青鞜」で書いた「女性は太陽だった」「元始」とは縄文時代と言えるかもしれません。弥生時代の米作によって食料貯蔵が可能になり権力による統治が進んでいく過程で、女性を男性に従属させる傾向が強まります。その矛盾が極まったのが平安時代とも言われます。
菅原孝標の娘だけでなく紫式部などの女性作家たちは、いわば「太陽」のように生き生きと生きた女性たちの末裔として文学で、女性の存在意義を表現したとも言えます。
実際は男なのに女に扮して「男もすなる日記というものをしてみんと…」とわざわざ断りの一文から始めた「土佐日記」作者の紀貫之の告白は、裏返せば女性の視点のユニークさを認めていたということです。
堀も更級日記を自分流にアレンジした「姨捨」(一九四〇年発表)という短編の作品を書いています。この作品の特徴は、菅原孝標の娘に相当する女性が晩年、夫に伴って信濃国に一緒に赴任していくことで物語が終わることです。菅原孝標の娘が実際は同行しなかったことについてはシリーズ十六回目で触れました。
月の凄いほどいい
先に紹介した「日本の女の誰でも殆ど宿命的にもっている夢の純粋さ、その夢を夢と知ってしかもなほ夢みつつ最初から詮の姿態をとって人生を受け入れようとする、その生き方の素直さ」との堀の指摘には異論もあるでしょう。
堀の時代はまだ更級日記の研究が発展途上で、現代文訳もいまほどに多様にはなされず、解釈も不十分でした。おそらく原文を読んで自分の解釈をつくっていったでしょう。堀は明治三十七年(一九〇四)の生まれです。青年期の大正時代は女性の参政権要求など女性解放運動が活発になっていました。堀もその空気に触れ、女性の立場について意識的に考える機会があったと思われます。
堀はまた「姨捨記」の中で、菅原孝標の娘が更級日記というタイトルをつけた理由を次のように記しています。
月の凄いほどいい、荒涼とした古い信濃の里が、当時の京の女たちには彼女たちの花やかに見えるその日暮らしのすぐ裏側にある生の真相の象徴として考えられていたにちがひなく、そしてそういふ女たちの一人がその心慰まぬ晩年に筆をとった一生の回想録はまさにそれに因んだ表題にこそふさわしいのだ。
先に書きましたように、平安時代の女性の置かれた状況や信仰生活を踏まえれば納得できる説です。堀が四十九歳で亡くなる昭和二十八年(一九五三)まであと十二年。この文章からは堀も自分の身を菅原孝標の娘の身に重ね、まだ三十六歳ではありますが、晩年を意識してこともうかがえます。
分去れの道しるべ
堀を更級日記にこだわらせ、短編まで書かせたもう一つの影響として、私は追分宿の「分去れの道しるべ」があると推測しています。
追分の分去れは、江戸時代、江戸から中山道を来て、向かって右に行くと北国街道、左は都へと続く主要街道の分岐点です。ここに道しるべの石碑がいくつかあるのですが、この中の子持ち地蔵が座っている三段重ねの台座の一番上の正面に次のような文字が刻まれています。
さらしなは右
みよし野は左にて
月と花とを追分の宿
右の北国街道を行くと月の更級も体験できる、左に中山道をさらに進んでいくと桜で有名な吉野(奈良県)にも行けるという意味です。さらしなは吉野と並ぶ天下の名勝だったのです。
この分去れで、堀が道しるべとツーショットで写真を撮ったものが、追分にある堀辰雄 文学記念館にも飾られています。堀はこの碑文を口ずさんでいたのではないでしょうか。
兄弟のデュエット歌手の狩人に「コスモス街道」という歌があります。一九七七年のヒット曲ですから、三十年ほど前、私が高校生のころで、私もよく口ずさんでいました。この中に「右は越後へゆく北の道 左は木曾までゆく中仙道」というさびの歌詞があります。これも追分の分去れをモチーフにした歌だったことを最近、知りました。
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