長野県木曽町福島(旧木曽福島町)に「さらしなや」という名前の旅館があります。木曽なのになぜ「さらしな」なのか。その由来が分かりました。「さらしなや」さんは明治五年ごろの創業で、木曽にある棚田の景色を見て育った初代の女将さんがそのことを誇りに思い、棚田で有名な当地「さらしな」の名前を使ったんだそうです。
家老の別荘
ご連絡を差し上げてまず応対していただいたのが、四代目の現在の女将、安藤みね子さんです。「さらしなや」さんでは代々、妻が旅館業を営み、夫が外で働くという生業形態をとっており、安藤さんのご主人、隆治さんは設計事務所の経営をおやめになって今は一緒に旅館業に従事していらっしゃいます。お二人が地域の郷土史研究家の方にも取材し、いろいろ調べてくださっていました。
安藤さんの江戸時代のご先祖は、中山道を往来する人の取り締まり機関、福島関所を守る代官の補佐役である家老職に就いていました。地図をご覧ください。「福島関所跡」の南側の永田地籍には「家老屋敷」と伝わる場所があり、そこからは今も棚田の景色が見えるというのでご案内いただきました。現在は国道19号バイパスが通過していますが、永田地籍の北側の田尻地籍に確かに棚田が広がっていました(左の写真、地図では水色の円)。この「家老屋敷」は関所のある町の中心街の家老の家とは別に、家老の別荘だったようです。初代の女将は江戸・安政3年(1856)生まれの「てつ」さんというお名前なのですが、ここで棚田の景色を見ながら育った可能性があるということです。
福島は中央に木曽川が流れる谷あいの町で、田んぼ自体があまりなく、近くでまとまった棚田があるのはこの辺ぐらいです。「家老屋敷」の脇には永田沢という川が流れ、棚田にも流れ込んでいます。北側の福島関所跡との間には、木曽義仲とその家臣の霊を祀った関山と呼ばれる小高い丘があります。直線距離わずか100メートルほどですが、この丘が町の喧騒を遮断しています。訪ねたのは6月中旬、流量豊かな永田沢の流れが聞こえます。水を張った田んぼには周囲の山の稜線が映ります。水面に上空を横切る月が映った光景も思い浮かび、江戸時代の別荘地にふさわしい場所だと思えました。今は、部分的にそばが植えつけられており、「更科そば」にちなんだ粋な耕作でもあるなと思いました。
大半のあぜ草が刈ってある中で、アヤメの株だけ残してありました(左の写真の中央左)。木曽ではあちこちにアヤメが自生しているのですが、近代俳句の創設者、正岡子規も初夏に善光寺街道を経由して木曽路を歩いたときの紀行文「かけはしの記」(シリーズ86など)に、「やさしくもあやめ咲きけり木曽の山」という句を残しています。子規も私と同じような景色を見て詠んだのではないかと思いました。
福島の女三人衆
初代の女将、てつさんがさらしなや旅館を開業したのは、現在地ではなく福島関所の東側の場所だったようです。関所の隣で開業できたのは、家老職だったことと関係がありそうです。さらしなやさんは今もこの近くに畑をお持ちで、古い親戚もいるそうです。五~六人が泊まれるほどの小さな旅館だったのですが、明治維新で武士の身分がなくなって生活費を得るために、てつさんが15歳のとき、旅館業を始めました。
「そんなに若く!」と驚きましたが、てつさんのお父さんの茂睡さんはその前年ぐらいに亡くなっており、家計の大黒柱をてつさんが担ったわけです。「福島の女三人衆の一人」と呼ばれ、美人で頭がよかったそうです。武家だったので着物の裾が開かないよう、幼少期は家の梁りに上がり下から突く槍をよけながら歩く訓練を受けました。1937年、81歳で亡くなりました。
旅館の場所は、人の往来する道が明治半ば以降、関所へのルートから外れたため、人通りの多い上町に移しました。さらに鉄道が開通したのに伴い、木曽福島駅近くの現在地に移りました。上町時代の旅館は1927(昭和2)年の大火で焼けてしまいましたが、てつさんが再建したそうです。同時期、二代目の女将の菊野さんが現在地で新たに旅館業を始めました。ただ、再び試練です。1983年の木曽川の洪水で、旅館が部分的に流されてしまいました。しかし三代目の女将、恵以子さんは「絶対再建する」と頑張り、今に至っています。
安藤さんご夫妻に伝わる歴史の大半は、ご両親の半一郎さんと恵以子さん(ともに故人)のお話だそうです。半一郎さんは学校の先生で、木曽・馬籠宿生まれの文豪、島崎藤村の研究会のメンバーでした。旅館の玄関を入ると、半一郎さんが藤村の「夜明け前」の自筆原稿通りに彫った大きな木板が目に飛び込んできます。現在の女将、みね子さんは木曽の歴史文化を案内する活動にも取り組んでいます。
宿泊客は中山道を旅する人はもちろん、更級農業高校(長野市篠ノ井、旧更級郡篠ノ井町)の相撲部の生徒も利用します。一1978年のやまびこ国体で木曽が相撲会場になったことなどから、よく試合があるのだそうです。
やや余談ですが、みね子さんの生家は長野県北安曇郡池田町で、おばあさんの生まれた家の菩提寺が豊臣秀吉の正室、ねねが建てた京都の高台寺です。10年ほど前に訪ねたとき、秀吉の書に「さらしなやおしまの月もよそならんただ伏見江の秋の夕暮れ」という和歌があるのを知り、「さらしな」との縁に誇りを感じたそうです。私もその後に高台寺を訪ね、その歌の存在を知りました。不思議なご縁です(秀吉のこの和歌についてはシリーズ49)。
右上の写真は、旅館の玄関前で右から安藤隆治さん、みね子さん、長女の美佳さん。家族的な温かいもてなしで、みね子さんは棚田のアヤメ近くに自生するイラクサの若葉を摘み、夕食のてんぷらにして出してくださいました。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。