135号・秀吉が更級とともにライバル視した「雄島」

 シリーズ49号で豊臣秀吉が「さらしなの月」を意識して詠んだ和歌「さらしなや雄島の月もよそならんただ伏見江の秋の夕暮れ」を紹介しました。秀吉が月を美しく見せる空間としては自分の砦である伏見城付近の水辺の方が、当地や日本三景の一つ、宮城県・松島より優れていると言っている歌です。裏返せばそれほどさらしなと松島の月がすばらしいと当時の権力者に認識されていたことを裏付ける歌です。雄島はまた、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で船で上陸した可能性があるところです。
 その雄島に行ってくる機会がありました。ただ、東日本大震災の津波などでここに紹介した写真の姿は現在、少し変わっていることが心配されます。
 松島は千松島から
 雄島は松島を構成する大小200以上ある島の一つなのですが、「松島」という地域名の発祥地とされています。平安時代、この島に住んだ高僧をたたえ、朝廷が松の苗木を1000本贈ったことから「千松島」と呼ばれ、全体の島々を総称する「松島」はこの「千松島」から取ったというのです。「おしま」という呼び名は、高貴な島として「御島」と表記されたことからの由来だそうです。
 とすると、秀吉は和歌の中で「雄島の月」と記してはいますが、現代人が「松島の月」と言うときの月の光景をイメージしていたことがうかがえます。また逆に言うと、秀吉の時代、雄島は松島を代表する島であったことになります。
 ①の写真をご覧ください。矢印の先が雄島で、南北約200㍍、東西の最大幅が約50㍍の細長い形で、陸に最も近い島の一つです。②の写真が陸側から雄島に渡る橋で、「渡月橋」と呼ばれます。
 島に入ると、すぐ右側に岩を彫り刻んでつくった磨崖仏が目に飛び込んできました。③の写真です。来島者が置いていった1円玉が、ちょうど眼鼻とおでこの位置にもあり、不思議な表情でした。外国の硬貨も供えられていました。
 芭蕉の磨崖仏?
 俳句のお師匠さんがよく被っている頭巾を着けている姿にも見え、松尾芭蕉をかたどっているのではないかとも思いました。そう思ったのは、芭蕉は「奥の細道」の旅で松島へは、南に位置する現在の宮城県塩釜市から船で渡ったからです。雄島にめぐらされた遊歩道を外れ少し降りたところには、岩を削ってつくった石段が海に続き、昔は船をこのあたりに付け上陸した場所ではないかと思いました。芭蕉もここから雄島に上陸したのではないかと想像しました。
 ただ、芭蕉は松島で月を見ることを旅の主要目的の一つにしていたのに結局、句を残しませんでした。「奥の細道」に記載されているのは、芭蕉に随行した曽良の句「松島や鶴に身をかれほととぎす」だけです(この句の碑は雄島に建立されています。写真④)。自分については「松島の景色にあまりにも感動して、句をつくるどころではなかった」という意味のことを記しています。
 秀吉・芭蕉の時代の前から雄島は、巡礼者でにぎわう特別な霊場だったそうです。石の板に文字を刻み死者を供養する板碑が多数、岩を彫り削った岩窟に安置されていました。⑤の写真は今も残る岩窟です。明治から昭和にかけての雄島の公園整備の際、板碑の多くが海に投棄されてしまいましたが、宮城県文化財保護課などが2006年から周囲の海底を調査。「霊場としての雄島」が日本三景としての松島を生み出す原点になったことがさらに浮き彫りになっていくと想われます。
 さあよおー瑞巌寺
 雄島はまた、戦国時代の武将で仙台藩祖の伊達政宗が完成させた瑞巌寺(国宝、写真⑥)の「奥の院」とも称されます。瑞巌寺は「まつしまあーのさあよおーずーいいがんじい(瑞巌寺)ほーどーの…」の歌詞ででおなじみの民謡、斉太郎節(大漁唄い込み)に出てくるお寺です。
 雄島から徒歩で15分ほどで、杉並木の参道に入りました。海が近いとは思えない山の気配が濃く漂っています。禅寺のためか本堂の外観は清そですが、金箔をたくさん使った内部の障壁画は外の光の加減で厳かさとあやしさを放っています。境内の周囲は岩で囲まれ、ここにも磨崖仏がいくつも彫られていました。
 帰りは遊覧船で、芭蕉が松島への船路のスタート地点にした塩釜市へ向かいました。餌を手にする乗船客に海鳥が近づき(写真⑦)、奇岩がいくつも見えました。⑧の写真は「鐘島」と呼ばれる島。島の穴に波が打ち寄せると、寺の鐘の音のように聞こえることからの命名です。これらの風景は今どうなっているか。海水面に月光が映る「松島の月」は体験できませんでしたが、趣が深いだろうことは容易に想像できました。

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