NHKテレビドラマ「坂の上の雲」(司馬遼太郎原作)に登場する俳人、正岡子規が東京帝国大学在籍中の明治24年(1891)、当地の善光寺街道を歩き、「かけはしの記」という紀行文にまとめたことを、シリーズ86で書きました。その紀行文の中で子規は、稲荷山(現千曲市稲荷山地区)から猿ヶ馬場峠(千曲市と麻績村の境)にかけ「路々に立てたる芭蕉塚に興を催して」歩いたと書いているのですが、当時、街道沿いにあった三つの「芭蕉塚」のことを調べてみました。
喧騒の中での精進
塚とは、もともとはお墓のこと。芭蕉が眠るお墓はシリーズ130で紹介した滋賀県大津市の義仲寺にあるのですが、そこまでなかなか行けない江戸時代の各地の俳人たちは芭蕉の供養と俳句精進のしるべにするため、芭蕉が詠んだ句を石に彫り、在住の地に建立するようになりました。それが芭蕉塚です。「かけはしの記」によると、子規は稲荷山宿で一泊し翌朝、まず治田神社境内にある芭蕉塚を見たと思われます。左下の写真です。 刻まれた句は
何にこの師走の市にゆくからす
建立は「文化元年」とあるので1804年、今から約200年前です。芭蕉の死から110年後で、建立日も芭蕉の命日に当たる「10月12日」であるため、没後110年の節目、芭蕉の追善供養を兼ねたものです。建立者は「信陽日々斎連中」と刻まれています。
「信陽」とは信濃や信州と同様にかつて長野県一帯を指すときに使われた言葉。「日々斎」は治田神社神主の児玉喬明さん。「日々斎」は俳句を作るときの名前で、長楽寺の面影塚(シリーズ80を参照、今号後半でも触れます)の建立者、加舎白雄の門人でもあったようです。
日々斎さんとそのお仲間やお弟子さんたちが建立したわけですが、芭蕉のあまたある句の中からなぜ「何にこの―」の句を選んだのか。治田神社の近くの稲荷山は江戸時代、善光街道の有力な宿場かつ物資の集積地でしたので、年末の師走は特に物や人、情報が集まり、大変なにぎわいだったと思います。日々斎さんたちは、そうした喧騒とは一線を画し、心を平静に落ちつけて芭蕉が目指した俳句の道に精進しようというような気持ちをこの句碑に込めたのではないかと思います。
人間の背丈に相当する巨石です。芭蕉の作風を、俳句をやる人にとってのお手本と宣言する意味合いもあった面影塚の建立(1769年)から35年で、まだその余韻が残っていた時代です。日々斎さんたちは正面に「芭蕉翁師走塚」と彫っており、面影塚の正面にある「芭蕉翁面影塚」の塚名を強く意識した命名です。
姨捨まであと少し
次は「火打石茶屋」の芭蕉塚です。
姨捨はこれからゆくか閑古鳥
茶屋とは江戸時代、街道を往来する人たちのために設けられた飲食ができる休憩スポット。「火打石茶屋」の呼び名は、カチカチとこすり合わせれば火花が出る、大きな火打石がそこにあることに由来します。屋号は「名月屋」。茶屋本陣とも呼ばれ、付近の茶屋の中で最も格式のある茶屋だったそうです。武水別神社(旧更級郡八幡村、現千曲市八幡地区)の祭典である大頭祭では、この茶屋の火打ち石から採火していた時代もあるそうです。最上部右の写真がその場所で、左側の巨石が火打石、上に載っているのが芭蕉塚です。今はあずま屋が建った休憩所になっています。
この句は本当に芭蕉が作った句なのか疑われていますが、鏡台山から上る月や「田毎の月」で有名な姨捨は、まもなくの所であることをカッコウ(閑古鳥)の泣き声を聞きながら期待を膨らませている様を詠んだ句だと思います。写真の句碑は新たに作られたもので、子規が見たと思われる句碑(芭蕉塚)は現在、茶屋を営んだ方のお宅(千曲市中原地区)の庭に移されています。
治田神社→長楽寺→火打石?
さて、最後の三つ目が長楽寺の面影塚です。実は子規の「かけはしの記」の中では長楽寺のことがまったく触れられていません。子規はあえて長楽寺を訪ねなかったという解釈が一般的です。姨捨の月があまりにも俳人の間に知れわたり、「姨捨」を句に詠んだだけで何かありがたるような空気が支配的になっていたため、「月並み」などと権威を皮肉る言葉も作り、文学としての近代俳句を打ちたてようとしていた子規には無視したい対象だった、というのがその理由です。
だとすると、今号では取り上げられないのですが、子規は長楽寺にも立ち寄り面影塚を見た可能性も考えていいのではと思うようになりました。子規の来訪9年前の明治15年(1882)に作られた当地の地図(詳しくはシリーズ101参照)を見てからです。右の地図がそれで、鉄道の篠ノ井線が敷設される前、江戸時代から歩かれていた道(赤線)を記しています。
ここでは治田神社から長楽寺に向かう道が、郡、峯両地区を通りしっかり伸びています。善光寺街道のルートを南に外れることになりますが、子規が観月の名所として全国に知られた長楽寺への道の情報を得ていなかったとは思えません。今のようにいろいろな道があるわけでもないし、道順も難しくありません。さらに長楽寺からは、千曲市川西地区振興連絡協議会のみなさんが再び歩けるよう整備してくださった火打茶屋から長楽寺への「オバステ近道」(シリーズ95参照)を経由すれば善光寺街道に再び合流できます。
子規は猿ケ馬場峠の手前の茶屋でひと休みしたと記しています。名前は書きとどめていないのですが、火打石茶屋だった可能性もあり、ルートとしては不自然ではありません。ただ、その下にも「松崎茶屋」と呼ばれた茶屋もあり、ここで休めば長楽寺に立ち寄ったとは考えにくいです。紀行文は見たものをすべて書くわけではなく、目指す文学・世界観にそぐわない場合は、史跡が有名であっても省くことはありえます。確かなのは子規が面影塚を見た根拠が明確にはないことです。
なおシリーズ101で、芭蕉は「杉ノ木」地区を経由して長楽寺に到着したかもしれないと書きましたが、「杉ノ木」は現在の姨捨地区に含まれます。火打石茶屋の写真に映るお二人は、千曲市川西地区振興連絡協議会事務局の山口盛男さん(左)と「まんが松尾芭蕉の更科紀行」著者のすずき大和さんです。 画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。