千曲市須坂地区(旧更級村)ではかつて製鉄が行われていた可能性があります。裏付ける遺物が発見されたわけではありませんが、地名や地形、さらにお住まいの方々の名字から可能性が高いことをさらしなの里歴史資料館学前芸員の翠川泰弘さんが論考で発表しました。製鉄が行われていた時期は平安から江戸時代にかけた、ほぼ「中世」と呼ばれる時代。「そんな昔の話か」と言わないでください。古代姨捨山の麓、当地の当時の姿をイメージすることが可能になります。都人があこがれた「更級」の原型が埋もれている貴重な空間であることも分かってきます。
鉄関連の名字がいくつも
「須坂地区が製鉄と関係した地域」という説は、さらしなの里友の会前会長の大谷秀志(故人)さんが当地に残る地名をもとに指摘していました。翠川さんは発掘と住民の名字の観点を加えて補強しました。きっかけは2006年に行った福島修さん方の庭の発掘調査。須坂地区の防火水槽の設置場所になったことに伴うものでした。左の地図で「調査地点」と書かれた左側にある●印の所です。
千曲川の流れが削ってできた須坂段丘上にあり、調査では平安から江戸時代にかけての竪穴住居や掘立柱建物の跡、さらに屋根瓦が載っていたかもしれない建物の礎石が30平方㍍ほどの狭い地に密集して発見されました。福島家の家系図の始まりは平安末にあたり、さらに福島(F)の「福」は「吹く」であり、製鉄に使う「ふいご」に携わる関係者である可能性があるんだそうです。
ほかにも鉄に関係した名字がいくつもあります。もう一度、左の地図をご覧ください。翠川さんが製鉄に関係した名字を住宅地図に落としたものです。福島邸の遺跡周辺の地形や過去の発掘調査から、古代の須坂地区は低地と台地があったことが推測されるそうです。谷のように低くなっていた所と千曲川によって上方から土砂の運ばれた氾濫原の低地に網を掛けると、福島邸の周辺が台地として浮かび上がります。台地南部(右下)の先端には阿部姓が集まっています。阿部(A)という名字は門外不出とされていた、製鉄従事者に世襲的に受け継がれた名字です。
網のかかった更級小学校、児童館、保育園周辺は、谷地形部で砂鉄のたまり場だった可能性があるのですが、更級小から姨捨駅につながる県道と湯沢川の交差点にたたら口の地名が残っていることもそのことを裏付けます。たたらとは、砂鉄と木炭で鉄をつくる日本独自の製鉄法の呼び名で、たたら口の関(S)姓は、須坂への玄関口である湯沢川の堰守的役割を務めていたのではないかと翠川さんは推測します。冠着山の砂鉄成分を含んだ水の流れる湯沢川を南側へコントロールし、谷へ鉄分を運ばせていたのではと言います。砂鉄の運搬役は蟹沢も担っていたと考えられます。湯沢と蟹沢という2本の河川の運ぶ砂鉄が更級保育園付近の谷の周辺に堆積し、そこが砂鉄の採取地になったと翠川さんは推察します。
須坂の台地は砂鉄を採取できる地点であり、小さな離島状になっていることが往時の技術や製品を守り、他者の侵入を防ぐ天然の要崖にもなっていたと考えられるそうです。
立派な礎石が出土
遺物面での裏付けは、狭小な台地であるにもかからず福島邸だけからでも遺構が集中して見つかったことです。周辺にも連綿と遺構が密度高く分布する可能性があります。出土した礎石柱建物跡は製鉄遺跡との関連性もうかがえるそうです。礎石は、70㌢×62㌢、厚さ20㌢、80㌔のとても立派なもので、通常の人家では使われない規模です。礎石が大きいということは、その上に載った柱も規模が大きいことを意味しています。炎が上がっても火事にならないような空間の高さや広さ、製鉄炉の設置や作業のできる整地された土間だった可能性もあるそうです。
さらに谷の南側の現在の仙石地区には、小松(k)姓が集中しています。「松」という言葉は、松の管理を任されてきた一族である可能性があり、松は高い温度を出せる木炭として珍重されています。また湯沢川上流沿いには金井坡という地名がありますが、やはり鉄生産には関係があり、須坂で作られた鉧から分割された鉄を用いて鋳造し、農具や刀に加工していたのではないかとも考えられます。その名残として金井姓が現在でも集中しているのでしょうか。
ここまでの翠川さんの解説を聞くと、そうです。鉄に関係した一連の名字が当地にはまとまって残っているのです。
宗良親王と成俊の時代
製鉄をめぐる翠川さんの論考は「観月の名所、姨捨伝説の地である更級の里との関連も見逃すことはできません」と締めくくっているので、その部分は私が考察しました。製鉄はもちろん中世の様子をうかがわせる文献は当地には残っていません。たたら製鉄に従事する人たちは門外不出の特殊技術を持ち、鉄生産の原料を求めて移住を繰り返す集団であったため、民俗学も調査研究の対象になかなかできなかったそうです。しかし、更級地区の場合、イメージを膨らませられる文献があります。
一つは天皇家が二つに分かれた今から約700年前の中世、南北朝時代の南朝側の皇子、宗良親王が残した和歌です。彼は現在の羽尾地区(旧更級村)に一時滞在したとの説があります。南朝勢力を拡大するため地方遠征をしていたときに作った「更科の月見てだにもわれはただ都の秋の空ぞ恋しき」など、「さらしなの月」を詠みこんだ和歌をいくつも残しているのです。中世も「さらしなの月」が高貴な人たちにとっても格別なものであったことがうかがえます(詳しくはシリーズ75参照)。
もう一つは成俊というお坊さんが万葉集の巻末に添えた「奥書」(寛永版)の文章です。成俊は漢字だけで書かれた万葉集の読み下しに貢献した人なのですが、彼はこの奥書の中で「信州姨捨山の麓」に住んでいたと書いているのです。その場所の候補地の一つが仙石地区の東福所と呼ばれる地籍名のりんご畑です。万葉集を介し二人は当地で出会っていた可能性もあるのです(シリーズ6参照)。
二人と製鉄が関係があったかどうかは分かりませんが、羽尾・仙石両地区は須坂地区を見下ろす一帯です。たたら製鉄は数日間炎を燃やし続けるので、「ああ須坂ではたたらの炎が見える」と興に入ることもあったかもしれません。
製鉄技術は朝鮮半島から渡来したそうです。製鉄技術を受け継いだ人々が、都人と同じように東山道の支道(シリーズ33、34参照)が通る冠着山(姨捨山)のふもとを歩いていたとき、千曲川と湯沢・蟹沢付近に砂鉄の層を発見し、ここに住んで生業としたとも考えられます。平安時代までさかのぼれる製鉄遺跡は少ないというので、その痕跡を千年後の今も名字に留めているとしたら、貴重な地域です。
ではなぜ製鉄が行われなくなったのか。大量の木材が必要なので山がさほど深くない当地でははげやまになったのかもしれません。しかし、製鉄・加工のために当地に移住した人たちはその後もここに居を留めた可能性があります。当地の暮らしやすや月の美しさ、冠着山のふもとであることが定住させたのでしょうか。須坂、仙石両区は一つの地域の成り立ちがうかがえる歴史がありそうです。更級地区は姨捨山を頂点にした小宇宙。古代さらしなの原型を今も濃く残る貴重な空間と言えます。
翠川泰弘さんと大谷秀志さんの論考は、それぞれ「平成18年度千曲市埋蔵文化財調査報告書」、「鐵・鉄文化の探究と郷土回想」に載っています。千曲市立戸倉図書館で借りられます。中央の写真は古代たたら製鉄の想像絵。右の写真は成俊の居住地の候補である東福所のりんご畑から明治時代に出土した骨壷。ここに宗教施設があったのは間違いありません。今号では、翠川さんのほか、須坂区のみなさんのお力添えをいただきました。
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