127号・芭蕉が絶賛した越人の恋句

 松尾芭蕉の当地への旅「更科紀行」に随行した越人(えつじん)という人はどんな人物だったのか。シリーズ82で少し触れましたが、その後、調べているうちに、次の句が彼の代表作として伝わっていることを知りました。
  うらやまし思ひ切る時猫の恋
 芭蕉がこの句を絶賛したことが越人の代表句となった大きな理由らしいのですが、なぜ芭蕉がそこまで褒めたのか不思議でした。単行本「うらやまし猫の恋 越人と芭蕉」(吉田美和子著、木犀社刊)など、先人の研究を当たるうちに分かってきました。「恋句」を詠むことができるかどうかが、俳句をやる人にとっては大事な資質だったんだそうです(シリーズ前回126で「『スイッチバックの恋』のその後」について紹介しましたが、今号も「その後」の調査報告です)。
 人間の恋情を活写
 恋句とは文字通り恋心にまつわるさまざまな感情を詠みこんだ句のことです。「うらやまし思ひ切る時猫の恋」の句は、春先は猫がよく鳴く発情期であることを踏まえたものですが、意味はちょっと意表をつきした。
 うらやましいと思うのは、発情期が終わると、恋心をスパッと断ち切ることのできる猫、恋心の処理の仕方については猫に学びたいものだ―という意味だそうです。発情期の猫は鳴き声がすごいので、その恋心の激しさが「うらやましい」というのではなく、抱いた恋情を一瞬にして断ち切ることのできる猫を「うらやましい」と言っているんだそうです。いったん恋をしたら、その気持ちは病のようにまとわりついてなかなか断つことができないのが人間というものですが、越人のこの句はそうした人間の恋情を裏返して活写した句であるとも言えます。
 芭蕉もそのように解釈したのではないかと思うのですが、芭蕉はこの句を詠んだ越人について「心に風雅ある者、一度口に出でずということなし。彼が風流、ここに至りて本性をあらはせり」という言葉を残したそうです。現代語に要約すると「越人はこの『うらやまし…』の句を詠んだことで、すぐれた俳人の素質がはっきりした」と越人を絶賛しているのです。
 恋歌の伝統が俳句にも
 現代は、「軽み」という言葉でよく芭蕉の作風がよく紹介され、枯れた感じや花鳥諷詠などが芭蕉句の特徴のように思われていますが、芭蕉は「恋句」の名手でもあったそうです。元信州大学教授の東明雅さんの著書「芭蕉の恋句」(岩波書店)が参考になりました。
 芭蕉の弟子が記録した芭蕉の言葉の中に、「連句の中では恋句が出てきてほしい」という趣旨の一節があるんだそうです。「連句」というのは、現代人が親しんでいる五七五のリズムの俳句を個々人が作るのとは違います。何人もが集まって、まず一人が五七五の句を詠み、別の一人がその内容を受けイメージを膨らませて七七の句を添えます。さらに別の人が今度はその七七の句の世界を受けて新たな五七五の世界を…というような句作を何度も繰り返しながら、全体として一つの美的世界を作り上げる言葉の遊びです。五七五七七のリズムである古代からの和歌をもとに、江戸時代に盛んになった文芸です。
 古来、日本人の歌は万葉集をはじめ、「恋」が歌の主要テーマだったので、芭蕉がその伝統を踏まえ「恋」に関心があったのは当然のこと、と東さんは書いています。  ただ芭蕉の句は五七五の独立した句ばかりが学校の教科書にも載って有名になってしまい、恋句はあまり知られていません。芭蕉は「奥の細道」の旅でも、随行した曾良(信州諏訪生まれ)らとの恋句を作っています。「奥の細道」本文ではなく曾良らが記録しておいた連句です。仲間と読むときは万葉集の時代と同じように恋句をつくった方が楽しい、より人間らしという思いが芭蕉の中にあった証拠だと思います。
 更科紀行の中にも
 歌に恋を詠むのは、現代でもラブソングというジャンルがあるように一番のテーマですから、全く不思議ではないのですが、現代の句作にはあまり「恋」を詠もうとする感じがなくなっているのは事実だと思います。「この味がいいねと君が言ったから7月6日はサラダ記念日」など、話し言葉で短歌を作って大ベストセラーとなった俵万智さんの歌集「サラダ記念日」は、恋歌としての和歌の面白さを再認識させました。
 芭蕉自身の恋句も彼の残した連句の中から少し紹介します。詳しく解説するスペースがないので、ここでは前後の句は省略します。
 打ちゆがむ松にも似たる恋をして
 だれかが好きになって狂おしい気持ちを、くねくねと曲がる松の幹の姿に見立てた一瞬の発見と感動を詠んだ句です。もう一つ―
 語ることなければ君にさし向ひ
 話す言葉がなくなってただ、お互いに向かい合っている二人の姿が思い浮かびます。
 さて、では「更科紀行」の中に恋句はあるか。「奥の細道」の旅のような連句は残っていませんが、本文の中にある「ひょろひょろと尚露けしやをみなえし」に少し感じます。をみなえし(オミナエシ)は美女のことで、黄色い花の粒は晩秋になっても陽光を浴びるときらめいています。か細い茎がよくいつまでも立っているものだと思いますが、その姿に美女の面影を芭蕉は見た感じを受けます(オミナエシについてはシリーズ100、123を参照)。
 左右の写真は越人が描かれている掛け軸。芭蕉の高弟10人を描いたものです。右は美濃(岐阜県)生まれの三浦雲居(1831〜1912)の筆によるもので、越人は中央上の下左側。「うらやまし…」の句がその上に添えられています。左は芭蕉の「おもかげや姨ひとりなく月の友」の句を刻んだ「面影塚」を長楽寺境内に建立した加舎白雄の弟子、宮本虎杖庵に伝わった軸。いずれも矢印で示したのが越人です。左の軸で越人は後ろ姿なのはなぜなのでしょうか。中央の写真は、越人の功績を顕彰する「越人随行塚」。これも長楽寺の境内にあります。

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