子どものころに食べたごちそうの一つに「千曲どんぶり」があります。千曲市芝原地区(旧更級村)で食堂を営んでいた「豊味」さんが出していた料理メニューの一つで、鯉の切り身のフライを玉ねぎと一緒に甘辛醤油で煮て卵でとじ、それをご飯に載せたどんぶり物でした。かつ丼や親子丼と作り方は基本的に同じだったと思います。でも、かつ丼より好きでした。
約40年前の味の記憶ですが、「月の都」としての当地に欠かせない千曲川にちなんだ食べ物だったなあと思うと、その懐かしさはひとしおです。わが家にも出前をしてくださった豊味さんの奥様、坂田みよさんが今もご健在です。
おろした生の魚肉で
よく覚えているのは、坂田さんが家族分の丼をお盆に載せ、「お待ちどうさま」と、居間の上がり口に置いてくれた場面です。どんぶり同士がカキンとあたる音が食欲をそそりました。どんぶりはふた付きの薄手の磁器で、九谷焼のような赤や黄色、藍色など絢爛な模様が施されていました。ふたを開けると、卵の黄身と白身がフライにうっすらかかりほどよく蒸れていて、鯉独特のほろくさみの香りが立ち昇りました。グリーンピースも何粒かふってありました。
子どものころ、蕗の苦味は苦手でしたが、あの鯉のほろくさみはうまかったです。10年ほど前、40歳になったころ、もう一度と味わいたいと思い、自分で鯉の洗い(刺身)を買ってきて母にフライにしてもらってどんぶりにしたことがありますが、だめでした。それで坂田さんに聞いてみたところ、あの鯉のフライは刺身のようには洗っていなかったそうです。
上山田温泉(旧更級郡上山田町、現千曲市)の川魚店で、ご主人の豊志さん(中央の写真、店の厨房の中)が鯉を買ってきて3枚におろし、それをそのままスライスし、フライにしていたそうです。洗い(刺身)はくさみを取るために一旦湯をかけ、それを冷水でしめるのですが、そうした処理を施さない生の魚肉だったから、あの味わいが出ていたのでしょうか。
鯉の料理というと、みそと砂糖でコトコト煮込む「鯉こく」がよく知られていますが。鯉こくは子どものころは苦手でした。小骨がたくさんあっただけでなく、鯉独特の香りが理由だったと思います。でも豊味さんの鯉のフライは大好物でした。フライだけを単品で注文したこともよくあります。サクッという食感も楽しかったです。そのままでもおいしかったのですが、ソースより醤油をかけて食べるのが好きでした。
近くに千曲川があるから
豊味さんが食堂経営を始めたのは今から50年余り前の昭和43年(1968)。豊志さんはそれまでは農業をしたり、勤めをしたりする傍ら、千曲川の河川敷で川魚料理を提供するつけばも営んでいたのですが、その腕を生かし、奥様のみよさんとお二人で始めました。「千曲どんぶり」という料理名は豊志さんが付けました。「近くに千曲川があるから、これは千曲どんぶりにするだ」とおっしゃっていたそうです。
更級地区では数少ない食堂だったのでにぎわいました。青年団、消防団、PTAも宴会などに利用し、農協の会合ではよく千曲どんぶりが出ました。「かつ丼より少し安く、そのせいもあってよく売れていた」とみよさんはおっしゃっています。
豊志さんの得意料理には、ほかに「すずめ焼き」がありました。素材は千曲川で投網をして獲ってきたジンケンやフナなどの小魚。それを開いて串刺しにして一度唐揚げし、それを甘辛醤油につけて焼いたものだったそうです。すずめ焼きの名前は、その出来上がった料理の姿が鳥のすずめに似ていたからつけられたとも言われています。これも食べたことがありますが、香ばしくおいしかったです。くさみはありませんでした。上の写真で豊志さんが手にしているのはそのすずめ焼きだと思われます。
残念ながら、豊志さんは創業してから約四年後に体調を崩しました。息子さんの優さんが勤めをやめて店を手伝い、優さんの奥様の静子さんも出前などをして支えました。昭和53年(1978)に店を閉めました。私は一度だけ小学生のころ、創業して間もない豊味さんの食堂に行ったことがあります。母に言われて、すずめ焼きを買いに行きました。母は雑貨店を営み夜の食事の準備が間に合わないこともあったので、豊味さんは強い味方だったと思います。
豊志さんは67歳で亡くなりました。「豊味」という店の名前は、魚を獲るのが好きで味がいいからと豊志さんが付けたそうです。豊味さんの千曲どんぶりの話を知人にすると、食べたことがない人の食欲もそそるようで、多くの人から「それはうまそうだ」と言われます。
右の写真は豊味さんの創業当時、店の前で撮影したもので、左から豊志さん、みよさん、豊志さんの弟の弥平さんです。写真はみよさんからお借りしました。
左の写真は、当地を流れる千曲川河川敷にあるつけばの一つ。江戸時代、江戸と日本海側域をつないだ北国街道の渡しがあったところ(長野市篠ノ井、旧更級郡)です。シリーズ118で紹介した千曲川サイクリングロード上から撮影しました。中央奥が冠着山(姨捨山)。左は長野新幹線の橋脚です。この一帯の歴史やエピソードについてはシリーズ77をご参照ください。(2010年8月1日記)
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