119号・正岡子規を歩かせた善光寺街道

  正岡子規。今、子どもたちも作るのを楽しむ俳句の基礎を作った人で、近代俳句の創始者と呼ばれます。その彼が当地を訪れ、善光寺と関西方面を結ぶ善光寺街道を歩いたのは学生時代の明治24年(1891)。以来約120年がたった現代、再びこの街道に注目する人、歩く人が増えているのは何か因縁を感じます。当時も今も、歩くことによる「美の発見」に関心が集まっています。
 日本再発見ブーム
 子規が当地をどのように歩いたかについてはシリーズ86で、子規が残した紀行文「かけはしの記」をもとに触れました。子規25歳、まだ世にその名を知られる前の駆け出しの時期で、生みの苦しみ状態にいました。そんな時代、子規は善光寺街道をはじめ、とにかく歩きました。生地は愛媛県松山。子規は故郷が大好きで、よく帰省したのですが、田舎と東京の往復も歩き、また、箱根など東京周辺の名所にもよく出かけました。
 なぜそんなに歩いたのか。もちろん今のように車や電車がまだ発達していないせいもありますが、明治維新から約20年、当時の日本は紀行ブームだったそうです。幕藩体制が終わり、だれでも日本国中を自由に行き来できる時代となり、作家は各地に出かけ、盛んに旅にまつわる文章を書きます。文明開化で西洋ばかりに目が向いていた明治初期から、次第に国内、日本の良さを発見する機運が高まり、文筆家たちが活躍したのです。ディカバージャパンの第一波でした。
 昔、国語の授業で、明治時代の作家、国木田独歩の「武蔵野」が、関東・武蔵野地域の平地に広がる雑木林の風景の美を初めて活写した作品だと教わりましたが、これも日本再発見のトレンドと軌を一にしています。
 知的好奇心の強い作家たちが田舎と都会を行き来するようになり、日本人が長年かけて作ってきた伝統的な風景の美しさを発見したのです。
 感動の表現手段に
 子規もそうした作家の一人だったと思います。生地の四国・松山からは船で本土に渡り、歩いて何日もかけて東京に出てきました。そして子規は何度も故郷と東京を行き来します。東京での見聞や体験を踏まえ、ふるさとや地方都市の風物をいやおうなしに眺めるという環境に置かれていたわけです。
 こうした旅をしながら、子規は日本の風物、風土の美しさを深く感じていったと思われます。その発見、感動を表現する手段として子規にぴったりだったのが、俳句だったのだと思います。国木田独歩は小説・随筆で名を成し、子規は俳句で名を後世に残しました。「世界で一番短い詩」と言われる俳句なので、人一倍好奇心旺盛な子規の中で生まれる発見、感動を表現するには最適の手段だったのではないでしょうか。
 これも教科書に紹介されていた子規の句ですが、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を最初に知ったときは、とにかく子規の代表句だと覚えただけで、「こんな句なら自分だって作れる」と思いました。そう子供にも思わせてしまうのが子規の功績でもあります。子規がそれを意図してこの句を作ったかどうかは分かりませんが、果物好きの子規が法隆寺近辺で柿を食べていたときに法隆寺の鐘の音を聞き、そこに日本的な美を発見し、なんらかの感動を覚えたことは間違いないと思います。
 無意識に選んだ旅先
 「柿くへば…」の句をつくったのは明治28(1995)年なので、子規の当地訪問はその四年前です。当地を急き切って歩いたころの子規はまだ、俳句による美の表現に自覚的になる前だったと思います。ただ、松尾芭蕉が「更科紀行」を書くためにたどった善光寺街道を子規も歩いたことが、江戸時代までの俳諧を俳句に革新していく上で大事な肥やしになったことは間違いありません。
 子規は善光寺街道を歩いた2年後には芭蕉の「奥の細道」のルートをたどり、「はてしらずの記」という紀行文をまとめました。更科に旅をした後に奥の細道という順番は、芭蕉と同じなのです。結果として芭蕉を強く意識しながら善光寺街道をたどっています。ふるさとの松山に帰省する途中の旅だったとは言え、善光寺街道を選んだ理由には、芭蕉のことも頭にあったと思います。
 もっともこれは後からの理屈付けで、子規が自覚的に当地を歩いたわけではありません。しかし、子規をしてそうさせたのは、芭蕉が来訪した「さらしな・姨捨」の底力を無意識に感じたからと考えるのはあながち間違いではありません。
 姨捨山サミット
 現在、旧更級郡八幡村・稲荷山町の住民らで組織する千曲市川西地区振興連絡協議会など冠着山(姨捨山)周辺の住民グループが、善光寺街道をはじめとする当地に残る古道を再び歩けるよう整備を進めています。これも当地の風景・風土の美の再発見と言っていいと思います。
 美というのは芸術的な美しさということだけでなく、沿道の風景や名もない植物の美しさ、歩くこと自体の心地よさなど、小さくとも心身をリフレッシュさせる感動のことです。人生を生き、日々の暮らしを営んで行く活力、支えになるような発見のことです。今後、姨捨山周辺の住民で姨捨山サミットを開きたいという人もおり、当地の面白さが一層、明らかになっていくと思います。
 上の写真は、今年重点的に取り組んでいる一本松峠越えの古道の整備。旧坂井村(現筑北村)から大池、姨捨地区に出る道の草刈りをしているところです。中央の棚田を下ると、JR姨捨駅の踏切があります。
 右の写真は、学生時代の子規が旅をしていたときの装束です。このような姿で当地も歩いたと思われます。「別冊太陽・病床六尺の人生 正岡子規」(平凡社)から複写しました。左上の写真は、洗馬宿(長野県塩尻市)の分去れ、手前の石は道標で「左 北国往還 善光道」と刻まれており、関西方面から木曽路を来た人たちが中山道と北に向かう善光街道に分かれる分岐点です。子規はここから右後方に見える木曽の山地に歩を進めました。その道中のことも「かけはしの記」で詳しく記しています。 画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。