「太陽の季節」という石原慎太郎さん(現東京都知事)の小説のタイトルが、戦後日本の時代精神の象徴だったとシリーズ61などで書きました。時代が新しくなるときは太陽が文化現象の前面に出てくるのですが、明治維新後に太陽を強烈に意識していた作家が、島崎藤村です。「木曽路はすべて山の中である」で始まる藤村の代表作「夜明け前」が、石原さんの「太陽の季節」に相当すると思います。
ただ、時代と生育環境が違うと、作家は同じ太陽を意識しながらも、違う世界を描き出すものだな興味を持ちました。一方で二人の作品の連続性も感じました。
到達点
江戸時代まで日本の主要街道の一つだった中山道の木曽・馬籠宿(2005年の越県合併により現在は岐阜県中津川市)で、大名ら身分の高い人が泊まった本陣の主の生涯を軸に、幕末維新の動乱期を描いた歴史小説が「夜明け前」です。封建制度の抑圧からの解放を求める主は古代天皇制を理想社会と考え、その実現を期待しましたが、明治維新政府は西洋一辺倒の文明開化を推進しました。
良質な材木の宝庫である木曽の山林が地元で利用できず貧しさは変わらないことや神道軽視の風潮に失望した主は、明治天皇の行列に直訴して罪に問われ、しだいに狂気に陥ります。ついに地域の菩提寺に放火、座敷牢に入れられて死にます。結局、新時代の「お天道様」を見ることができなかったという意味の言葉を、主が最後に吐く場面が「夜明け前」というタイトルを強烈に意識させます。
この作品は長編で、藤村が57歳のとき、「中央公論」という雑誌での連載で書き始め、完結させたのが昭和10年(1935)、藤村63歳のときでした。亡くなったのは71歳ですが、藤村文学の到達点と言われています。
太陽の言葉
主人公のモデルは藤村の父親(島崎正樹)でもあることから、「夜明け前」は、藤村の文学や生きざまの集大成として世に出たわけですが、ここに至るまでも藤村はいくつかの局面で新時代を太陽になぞらえる文章を書いています。中でもズバリなのが52歳のときに書いた「太陽の言葉」というタイトルのエッセーです。
艱難の連続で暗い月日を過ごした自分の中に初めて太陽が昇ってきたのが25歳のときで、だれでも自分の中に太陽があること、そして老年に入った自分ではあるが、再び自分の中に太陽がよみがえってきたことを吐露するエッセーです。
左の写真は、エッセーの一節を引いた藤村直筆の記念碑です。「誰でもが太陽であり得る。わたしたちの急務はただ目の前の太陽を追いかけることではなく、自分の内に高く太陽を掲げること」と記されています。藤村が生まれ育った馬籠宿の屋敷跡地にある「藤村記念館」の一角にあり、「太陽の言葉の碑」と呼ばれています。
このエッセーが書かれたのは大正13年。「夜明け前」の連載が始まるのが4年後の昭和4年ですから、このエッセーをしたためているときには「夜明け前」という作品の構想が固まり、それに向かっての意欲を示した文章でもあると思います。
藤村の年譜をみると、「初めて太陽が自分の中に」と書いた25歳とは、藤村が「まだあげ初めし前髪の/林檎のもとに見えしとき…」などの新体詩で知られる「若菜集」を刊行したときです。その後の「落梅集」など藤村が発表してきた詩集をまとめた明治37年の本のまえがきに「遂に、新しき詩歌の時は来りぬ。そはうつくしき曙のごとくなりき」と記し、詩という文芸も新時代であることを朝日(太陽)になぞらえています。
青春ドラマ
こうした藤村の作品と生い立ちの関係をみると、石原慎太郎さんとは違います。「太陽の季節」の時代舞台は高度経済成長のただ中。シリーズ61を書いたあとに分かったのですが、1960年代から始まったテレビの「青春ドラマ」シリーズは、石原さんのアイデアで始まったそうです。
最初が夏木陽介さんが青年教師役で主演した「青春とはなんだ」。その好評を得て作られた「でっかい青春」(主演・竜雷太)、「おれは男だ!」(同・森田健作)、「われら青春!」(同・中村雅俊)などにも、石原さんのアイデアに共鳴した一人のプロデューサが携わっていました。岡田晋吉さんという方で、岡田さんの著書「青春ドラマ夢伝説」に詳しく書かれています。
中年になった石原裕次郎さんを「ボス」にした刑事ドラマ「太陽にほえろ!」も岡田さんの手がけたもので、青春ドラマの延長だといいます。お茶の間の最大メディアを支配したのですから、それは大きな太い時代精神となるわけです。そしてその先駆けは「太陽の季節」だったのです。直射日光のような太陽の光の強さを感じないわけにはいきません。
わずか12年
それに比べ藤村の「夜明け前」は地味です。違いは二人の作家が生きた時代背景と生育環境が関係しています。「夜明け前」も「太陽の季節」も、時代の抑圧に抗する性格を持っていますが、「夜明け前」は欧米列強の侵略圧力に対しては個人の尊厳は二の次という強い政治的抑圧が背景です。対して「太陽の季節」は戦争に突き進んだ大人たちの価値観が頼りにはならないという虚無的な空気の中での物語と言えます。敗戦によって「自由」がもたらされましたが、その価値観を自分たちで消化しなければならないというプレッシャーが若者にあった時代だと思います。最初にこの作品を掲載した雑誌は「ついに現れた戦後の青春像」とセンセーショナルに紹介しました。
さらに育った場所も違います。「木曽の山中」と「海辺の湘南(神奈川県の相模湾)」―暗さと明るさという対照的なコントラストがあります。
ただ、藤村が「夜明け前」を書いたのは、満州事変(昭和6年)など、戦時体制が強化されていく時代であったことを忘れてはなりません。昭和なのに小説は明治維新前後を扱ったのは、個人を強く抑圧していく流れを予感したためでもあると思います。60年余り昔のことを題材に「夜明け前」を書いたのは、時代への批判でもありました。
藤村が亡くなったのは昭和18年。石原さんの「太陽の季節」が出たのは、昭和30年(1955)。間に敗戦という大きな時代の転換がありましたが、わずか12年の後です。二人は全く違う作家だと思っていましたが、連続性を感じます。「太陽の季節」が出たとき藤村が生きていたら83歳ですから、存命でもおかしくなかった年齢です。その藤村に石原さんの小説を読んだ感想を聞いてみたかった気がします。
右の写真は藤村記念館の入り口です。明治28年の大火で焼けさら地だったところに戦後、藤村を慕う住民らによって新たに門などがつくられ、藤村関係の資料などが展示されています。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。