千曲市の観光キャッチフレーズが「芭蕉も恋する月の都」となったのを機に、NHKドラマ「坂の上の雲」に登場する近代俳句の創設者、正岡子規の「月の都」という小説に目を通してみました。これは世に打って出ようとした子規の最初の小説で、シリーズ86で少し触れたように、まだ俳句に本格的に打ち込む前の明治25年(1892)、子規が26歳のときの作品です。文語調なので幾度となく読み直し、大筋が分かりました。当地さらしな・姨捨にまつわることは何も書かれていません。しかし、子規が「月の都」という言葉にどんな世界をイメージしていたかをうかがうことができ、現代の「月の都」千曲市に参考になると思います。
恋に破れて
400字詰め原稿用紙で30枚弱の中編小説。好きになった女性が別の男と歩いているのを見て、出家する男が主人公。しかし、実は女性も主人公の男性が好きだった…。恋愛ならぬ悲恋のお話とも言えます。
物語の筋を簡潔に要約すると、これだけのことですが、「美の象徴」とみなしていた女性の不義に絶望した男は、美を「月の都」に求めます。「月の都」への旅に出るのです。旅立つに当たって「理想の美人を人間に求めしこと第一の不覚」と言っているのが印象的です。
ではその「月の都」とはどんな所か。具体的な地名が記されているわけではありません。道中の男の心境の大半を仏教の用語や世界観を引いて描いており、子規は仏である阿弥陀如来のいる「西方浄土」をイメージしていたことがうかがえます。極楽浄土、単に浄土とも言い、現代人になじみのある言葉では天国のことです。
芸術の本質は美です。文学も芸術の一つです。明治になって文学の美とは何かということに、多くの小説家たちが関心を深めており、子規もその一人でした。26歳の時点での子規が持っていた美についての考え方がこの小説に反映していると思います。
命がけでイメージ
では、なぜ子規は月の都を浄土とみなしたか。浄土は山の中にあるという日本独特の浄土観が関係していると思います。
仏教はインドで生まれ、浄土は光に満ちたはるか西のかなたにあるとされていたのですが、日本に入ってきて平安時代、源信というお坊さんが樹木など日本の山の要素を加えた日本オリジナルの浄土の世界を打ち立てました。「往生要集」という源信の書物の中で描かれているそうです。「日本人の他界観の構造」(大東俊一著、彩流社刊)という本の中で、詳しく解説されています。
この浄土観を受け平安時代末期から、阿弥陀如来がいる極楽浄土の画がたくさん描かれるようになりました。その代表的かつ先駆的ななものが、左の写真、京都市左京区の永観堂禅林寺にある国宝「山越阿弥陀図」です(縦約140㌢、横約120㌢)。
山の端のくぼみの向こう側に、月を背景にした阿弥陀如来がいます。この画を見て何か感じませんか。これは当地の鏡台山からのぼる中秋の月の構図とよく似ていないでしょうか。北と南の二つの峰があるため真中が凹んで見えるのが鏡台山の特徴ですが、この画ではそれぞれの山に勢至菩薩(左)と観音菩薩(右)がいて、阿弥陀如来の脇を固めています。手前には水の流れが見えます。千曲川を思い浮かべました。
阿弥陀如来がいる画は、死んだ後の浄土の世界をイメージしやすいように描かれてきました。現代と違い、昔、人々は信仰心が深かったので、それこそ命がけで死後の浄土という世界を具体的に知りたいと思っていたはずです。この画を眺めていると、月が仏さまそのものだと言っているようにも思えます。
生きながら浄土
子規が浄土のイメージをこの画のように持っていたかどうかの直接の資料は見つかっていませんが、26歳ごろの旅をするときに被っていた菅笠には「西方十万億土巡礼」と墨書きしています(写真中央)。「西方十万億土」とは経典の一つ「阿弥陀教」の中に登場する言葉で、「十万億土」というのは、はるかかなたにある極楽浄土という意味ですから、子規は浄土と自分の目指す美の世界を関係付けて旅をしていたことがうかがえます。最初の小説を書いたときの子規にとっての文学の美とは浄土だった可能性があります。
浄土信仰が日本に広まり、約千年にわたって日本人が念じてきた極楽浄土。のちに俳句を革新する子規ですが、最初の小説では伝統に忠実に月の都を描き出そうとしたと言えます。子規は文学の美を浄土という身近な世界観になぞらえ、そのままでは仏教書になってしまうので、日本人が句歌でなじんできた「月の都」という言葉を持ち出して、自分のオリジナルの美を描き出そうとしたように思えます。
2009年の中秋(10月3日)、JR姨捨駅で「まんが松尾芭蕉の更科紀行」著者のすずき大和さんを招き観月トークショーをしました。そのときに見た鏡台山と月の光景も、今にして思えば永観堂禅林寺の「山越阿弥陀図」とそっくりです。中秋の月を見ることは、浄土を体感する経験に近いかもしれません。姨捨駅はなだらかな山の中腹に位置するので、下界が眺められます。下界を眺められるという点では、極楽にいるような錯覚も覚えます。(トークショーの様子はシリーズ104を参照)。
子規の小説の中では「さらしな・姨捨」こそ登場しませんが、子規のおかげで千曲市が「月の都」と名乗っていい大きな根拠を得ることができました。当地で、月の都にひたることは、死後の世界をイメージすることでもあるかもしれません。感受性の強い人なら、生きながら浄土にいるような感覚を覚えたとしても不思議ではないと思います。
右の写真は、小説「月の都」の挿絵。子規が自分で描いたものです。菅笠の写真は、「松山市立子規記念博物館が編集した「子規100年祭in松山特別企画展・子規の文学」から複写しました。山越阿弥陀図は、同図を紹介する龍谷大学のホームページからダウンロードしました。
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