知り合いになった人に「当地に姨捨山がある」と言うと、「本当に年寄りを捨てていたのか」とよく聞かれます。「そんなことはない」とは答えるのですが、「旧石器時代」までのことは定かではありません。
更級原人?
旧石器時代は今から一万数千年前、縄文時代が始まる前までのことで、「旧石器」という呼び方は、その後の「新石器」時代に対して使われます。日本の新石器時代は平たく言うと縄文時代なのですが、旧石器時代はまだ縄文時代の特徴である縄目のある土器がまだ作られず、石を割って槍など、食料を得るための道具を作っていました。石器の制作技術もまだ進化しておらず、食料のある場所を求めて移動を繰り返す遊動生活だったので、老人は捨てられないまでも足腰が弱ると置き去りにされた可能性があるのです。
そのことを証明するために登場してもらう必要があるのがゾウです。旧石器時代には日本にも「ナウマンゾウ」と呼ばれるゾウがいて、中国大陸から朝鮮半島の東アジア一帯に生息していました。現在のアジアゾウやアフリカゾウより一回り小さく、旧石器時代は現在よりも気温がずっと低く氷河期だったため、全身は毛で覆われていました。長野県では野尻湖(信濃町)で化石の発掘が進むナウマゾウが有名ですが、野尻湖もその沿岸近くに位置する千曲川流域はナウマンゾウが行き来する「ナウマンゾウの道」だったそうです(戸倉町誌)。
ナウマンゾウの食料は草やコケなので、千曲川などの水辺は格好の生息環境。野尻湖も安定した大きな水溜りだったので、当時、野尻湖周辺に住んでいた人たちがナウマンゾウの肉を食料にするために狩猟し解体した後の骨が残っていたわけです。
当地の千曲市域ではナウマンゾウの化石は見つかっていませんが、ナウマンゾウを狩猟するために使ったとみられる旧石器時代の石器が、芝原地区(旧更級村)と三島地区(同)で見つかっています。下の写真の石器は芝原地区のりんご畑で、中村栄治さん(故人)が発見したものです。板状に薄くはがれる粘板石なので、けっこう鋭利な形状にでき、手の握り部分に木を付けて槍にして使ったとみられます(長さ約20㌢、厚さ約2㌢。三島地区のものは散逸)。
この石器が見つかっていることから、当時、当地にも人(更級原人?)が住んでおり、新たな食料を求めて移動する際に老人を置いてけぼりにした可能性があるのです。
絶滅は温暖化も原因
皮肉なことですが、ナウマンゾウという動物の絶滅した理由が、今に伝わる「姨捨説話」の創造にも関係しているのではないかと思います。旧石器時代末、つまりナウマンゾウの繁栄した時代の終わりごろ、地球全体が温暖化して現在の気温に近くなり、その結果、海水面が上昇し、大陸とつながっていた地面に水が流れ込み日本は島国になりました。このため、中国、朝鮮との間を大型動物が行来できなくなり、日本に残ったナウマンゾウは狩りつくされてしまいました。シロクマが日本の自然では生息できないように気候の温暖化も影響しているとみられます。ただ、その温暖化が現在の日本の森の植生をつくり、日本独自の縄文文化を生んだのです。
シリーズ26で触れたように、「老いの価値」が初めて発見されたのが縄文時代でした。その場に住み続けても、食べて子孫を残していけるほどに森や川の産物に恵まれるようになって定住生活が可能になり、老人は足腰が弱くなっても置き去りにされなくてよくなったのです。あわせて長く生きた人間の知恵が暮らしに生かされるようになり、「親と子の関係」に加え、「年寄りと孫の関係」が新たに生まれました。それは現代の多世代による村社会の共同生活の原点です。そして旧石器時代の老人を置き去りにした記憶が、今に伝わる「姨捨伝説」の原点にもあるとも思えるのです。
旧石器時代とライフスタイルの重なる部分のある縄文時代の初めは、人間が生きのびることは大変で、戸倉町誌によると、発掘された人骨はなんどかの飢餓状態を示しており、豊かな食生活ではありませんでした。年寄りが置き去りにされる姿が思い浮かんでしまいました。老人を置いてけぼりにする若夫婦とその子ども。それを見送る老人…。
縄文時代の当初は日本列島各地でまだ、老人の置き去りが続いたのではないでしょうか。当時の寿命は今よりずっと短かったので、今の3世代の年齢差の感覚とは違いますが、定住生活になじむにつれ、暮らしの知恵や文化を伝えるための言葉を含めたコミュニケーション技術が発達し、それに伴い敬老精神のような感情も生まれたと思います。「昔は年寄りにほんとに悪いことしたな」という懺悔の気持ちが世代間で受け継がれたかもしれません。
日本の縄文時代は、中国の秦王朝の時代くらいまで続きます。秦は激しい国内の動乱を踏まえ完成させた「万里の長城」が有名ですが、中国に比べ日本は、戦争のような大きな殺し合いがないまま自然との共生生活を約一万年も続けました。暮らしの文化が断絶されなかったと思います。
後悔を文学に?
そんな歴史、精神文化的な背景を持っている日本に、老人の知恵で国を救う物語の入った仏教の経典の一つ「雑宝蔵経」が伝わります(シリーズ33参照)。「そうだよ。そのとおりだ」と受け止め、姨捨伝説の話にはお年寄りの知恵の大事さを入れようという意識が働いたと言っては言いすぎでしょうか。当地を全国に知らしめた「古今和歌集」収載の和歌「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」も、旧石器時代の記憶がベースになかったでしょうか。時代がずっと新しくなると、老人の知恵による救国譚が加わっていくのですが、それは旧石器時代の置き去りへの反省もあるような気がします。
上の写真は、芝原地区のりんご畑。両翼を山の尾根に囲まれた独特の空間で飯縄山から戸隠連峰も望めます。ここでマンモスの往来を眺めていたのもうなづけます。以上を書くにあたっては「芝原老友会」のみなさんと、さらしなの里歴史資料館学芸員の翠川泰弘さんのお力添えをいただきました。同資料館に、中村栄治さんが見つけた石器が保管されています。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。