100号・なかなか見つからないオミナエシ

  俳人、松尾芭蕉が残した「更科紀行」には、秋の七草の一つオミナエシを題材にした句があります。
 ひょろひょろと尚露けしやおみなえし
 この句は文末に添えられているだけです。そのせいもあってさほど注目していなかったのですが、「まんが松尾芭蕉の更科紀行」(すずき大和さん著)の取材調査で当地を訪ねたすずきさんの奥様、鈴木悦子さんが「オミナエシがどこにもないですね」とおっしゃいました。それがきっかけで気になり始めました。
 美人、佳人の女郎
 年配の方の多くからは「お盆のときはよく山にオミナエシを採りに行った」「田んぼのあぜによく生えていた」というお話を聞きますが、私(四十八歳)は父について山に入りユリは採った記憶があるだけで、オミナエシに関する思い出はありません。たまたま、勤め先(東京)近くの公園に私の胸元くらいの丈のオミナエシがあったので、昨年1年通しで観察しました。
 小さな粟粒のような黄色の 花がまとまって咲き、円すいを逆さまにした形をしているのが特徴で、1本の細長い茎からいくつも横に広がっています。オミナエシの名前は、粟の入ったごはんのことを、もち米でたくごはん「男飯」に対して「女飯」と書いたことから由来しているという説があります。「おみな」は女性の意味です。
 漢字は、現代人には「遊女」のイメージが強い「女郎花」が当てられていますが、「女郎」が遊女の意味で使われるようになったのは江戸時代からという説があります。オミナエシを指すときの「女郎花」という漢字は平安時代には使われ、もともと美人、佳人の意味だったという説もあります。万葉集に登場するオミナエシの歌では、ほかに「娘子部四」「姫押」「娘部思」「佳人部為」「美人部師」などの漢字が当てられていることからそれが証明できるそうです。女性が頭に刺すかんざしの形にも似ています。
 黄色い粒のような花は、小さな月にも見えます。そのせいもあって、中秋十五夜(旧暦8月15日)に飾る花の一つに選ばれたのでしょうか。東京の公園のオミナエシは花が終わってもなかなか落ちず、冬になっても粒は長く残っていました。
 鏡台山に
 ことしは当地、さらしなの里でオミナエシを見ようと思いました。姨捨の棚田一帯を歩きましたが、まだ見つかりません。山道や田んぼのあぜを気にかけるのですが、見当たりません。
 上山田文化会館(旧更級郡上山田町)の広場で、プランターに植えられたオミナエシを見つけました。東京で見た株立ちのオミナエシとは違い、1本だけの茎です。上山田温泉の旅館「亀清」さんを訪ねたとき、ロビーの花瓶にオミナエシが刺してあるのを見つけました。宿の主、タイラー・リンチさんにお聞きしたら、露天風呂の庭を手入れしてもらった知人が置いていったとのこと。早速、露天風呂に案内してもらうと、ありました。オミナエシが何本か。タイラーさんの高い身長に負けず劣らずの丈があるように見えました。稲荷山地区の(旧更郡稲荷山町)の長雲寺の境内には、株立ちのオミナエシがありました。
 いずれも屋敷の中です。自生しているを見つけたのは、今のところ左の写真の鏡台山だけです(鏡台山についてはシリーズ99を参照)。多くの種類の草花にまじり、見逃してしまいそうな可憐な花でした。来年も咲くかどうかと心配してしまいました。冠着山はまだ探していません。
 虫も大好き?
 年配の人たちには自生が当たり前だったオミナエシがなぜ、見えなくなったのか。これは全国どこでも同じ傾向だそうです。里の植生が変わったことが原因のようです。オミナエシは日当たりのよい草地を好むそうで、山は手入れが施されなくなり、草地が減りました。里も頻繁な草刈りや除草剤などで見えなくなったという人がいます。採って持ち帰る人がいて、さらに減った可能性があります。鏡台山がそうならないといいのですが。
 この衰退過程は、春先のカタクリと重なります。カタクリは復活に力を入れる人が増え、全国的に取り組みが盛んですが、オミナエシはあまり聞いたことがありません。  一年間オミナエシを観察し、芭蕉が「なお露けしや」と詠んだ気持ちが少しわかったような気がします。ひ弱に見えながら長く姿を保ちます。「露けし」は「艶」にも通じ、美人、佳人の姿を想像したかもしれません。芭蕉に句作させた当時のさらしなの里の路傍の草花はどんな風情だったでしょうか。オミナエシの花言葉は「親切」「心づくし」「はかない恋」だそうです。
 中央の絵は「まんが松尾芭蕉の更科紀行」でオミナエシの句が登場するページです。右は東京の公園に咲くオミナエシの蜜を吸うミツバチ。ほかにもいろいろな虫が集まっているのに驚きました。今話題の都内の養蜂家が取ったハチミツにはオミナエシの蜜が含まれたものがあるかもしれません。(2009年9月23日記)画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。