更級といえば姨捨、月だけでなく千曲川も欠かせない存在になった背景について記したいと思います。
巨大な水溜り
地質学がご専門の信州大学教育学部教授、赤羽貞幸さんの論文(川辺書林刊行の「治水とダム」所収)によると、千曲市を含む善光寺平は、洪水のときに上流や周囲の山々から土砂が流れ込み、約千年で1㍍の割合で堆積してきたそうです。
ですから更級を詠んだ古歌「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」が収められた今から1100年前の古今和歌集の時代は、全体に1㍍低かったことになります。また、縄文文化が最盛期を迎えた今から五千年の縄文時代中期は、千曲川の河床は今より五㍍も低地だったわけです。旧更級村須坂地区には千曲川の流れの侵食でできた崖(須坂段丘)が特徴的に見られます。
今でこそ頑丈な堤防が築かれ、流路は定まっていますが、人類の歴史が始まってからの大半は、善光寺平は水の流れるままでした。大雨が降れば平地はすべて流路となり、更級・埴科両郡の間は水浸しで、その様はダムのような水溜りだったと思います。
堤防沿いに広がる現在の田んぼは氾濫原で、ここを人が歩き、車が通れる歴史は、実は近代的な堤防が築かれた明治以降、100年そこそこの歴史しかないのです。
戸倉町誌を読むと、隣の地区に行くのにわざわざ山越えをする峠を設け、それを普段の道としていたと記されており、どうしてなのか不思議でした。その一つが芝原と仙石をつなぐ「猿越道」と呼ばれるもので、今も両地区のりんご畑をつなぐ道として使われています。千曲川に堤防もダムもないころは、これが一番安全な道だったということが、赤羽さんの文章で理解できました。水辺に近い低地の道は大水が来れば流されてしまったからです。
それにしてもまだ人間の数も村の数も少なかった往古、大水に満たされた善光寺平。水面に日中は太陽光、夜は月光が注ぎます。その様はそれは青く白く美しかったことでしょう。
千曲市に王家の谷?
閑話休題です。こうした往時の千曲川をめぐる人々の営みを楽しく比べる機会に恵まれました。4月16日(2005年)に戸倉創造館で行われた日本ナイル・エチオピア学会の第十四回学術大会(同学会主催、千曲市とさらしなの里友の会後援)です。
ここではエジプトのナイル川と千曲川についての研究発表がありました。長さではそれぞれ世界一、日本一ということは知っていましたが、教科書に載っていただけで遠かったナイル川がかなり身近になりました。
たとえば千曲市森地区の森将軍塚古墳。千曲川を見はるかす山上に県内で最大規模の前方後円墳があり、周辺に小規模の円墳がいくつもあります。これらは〝王様〟の一族が千曲川を意識してつくった古墳群で、ナイル川沿いのツタンカーメン王で知られる「王家の谷」に相当するそうです。善光寺造営の際の材木は千曲川上流から流されてきましたが、ピラミッドの石も上流から水路で運ばれたそうです。
さらに大水がもたらす肥沃な土を利用した農業など、大河と人間の関係はナイル川も千曲川もその規模は違えど、本質的には同じなのだということが分かりました。(ところで、スフィンクスに相当するものは善光寺平では何でしょうか。スフィンクスは宮殿や墓の守り神だそうです)
感嘆の声
もう一度、千曲川に堤防がなかった時代のことです。日本列島は森将軍塚の王様が活躍した古墳時代の後、律令という法律に基づく政治行政制度が導入され、中央集権国家となります。全国的に役人や知識人たちが行き来するようになります。その際に各地をつなぐ道がつくられます。その多くは現在の高速道路のルートとほぼ同じです。
善光寺方面に都から向かう人たちは、松本から麻績を通って姨捨山(冠着山)付近の峠を越えて千曲川に出会います。長野県のテーブルランドとも言える東筑摩郡の山路を歩いてきた旅人たちは峠で善光寺平を流れる大河を一望して開放感に包まれ、感嘆の声を上げていたでしょう。
4点セット
感動を文字に残したのが俳人たちです。松尾芭蕉が17世紀末、旧更級郡八幡村の長楽寺周辺を訪ねたのが大きく影響していると思います。郡外の旅人だけでなく郡内の人たちも句作のために往来したことでしょう。西沢茂二郎さんのご著書「姨捨山新考」(1936年発行)から古人の句をいくつか掲げます。
月にさらす更科川の石白し (紫孤)
あの裾も月見の舟や千曲川 (知止)
咲きたりな月に千曲の浪の花 (文栄)
おばすてや降るは千曲の川時雨 (亀柳)
更科や月は千曲の瀬々にまで (一音)
名月や國を貫く水長し (六山人)
これらの句には、更級と月、姨捨山、そして千曲川が四点セットでイメージされていたことがうかがえます。俳人の間では当時、ナイルといえばエジプトというのに匹敵するくらいの身近さで、千曲川といえば更級と連想されていたように思います。
長楽寺上方にあるJR姨捨駅のホームには、眼下に見える風景が「全国三大車窓の一つ」と記された案内板があります。その横には毎年秋、千曲市で行われている全国規模の句会「信州おばすて観月祭」への投句箱が設けられています。私もひねってみました。
老い一人千曲の春田鍬打てる
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