大岡村が2005年元旦、長野市と合併し、行政区画としての更級郡もなくなりました。先立つ04年12月12日、閉村式が村文化センターで行われ、私も行ってきました。
午前9時半、村の自治活動への功労者約200人が役場前に集まり、まず、記念石碑の除幕式がありました。役場玄関の西側、北アルプスが一望できる場所に「大岡村役場跡」とともに「更級郡」という文字が刻まれたものです。
複雑な思い
その後の閉村式では、来賓の方々の何人かが、「更級郡」消滅への感慨を語りました。印象に残ったのは参議院議員の若林正俊さんの言葉です。
「私は更級郡稲里村田牧の生まれ。(更級郡のついた出生地名と)自分の名前を一緒に覚えて育ってきたが、稲里村は更北村になり、長野市に編入した。いよいよ、更級郡の行政区画が無くなると思うと、大きな時代の流れを感じ、複雑な思いです」
郡名とともに自分の生まれた村の名前を認識するのは、一定の年齢以上の方にとっては普通のことだったようです。
古物店で古いハガキを何枚も見たことがあります。差し出し人としての自分の名前の右隣に郡名をセットにして書いてあるものがたくさんありました。あて先は同じ県内、中にはお隣の「埴科郡」ですから、村の名前だけであえて記さなくてもちゃんと届くと思うのですが、わざわざ「更級郡○○村」と表記しているのです。
確かに自分の子ども時代も、年賀状を書くときなどは、かならずあて先もふくめ双方の郡名を書いていた記憶があります。
来賓の方のあいさつのあと、記念講演した長野郷土研究会会長の小林計一郎さんの指摘になるほど、と思うところがありました。小林さんは大岡村の村史を書くとき、理屈が合わなくなって困ったことがあったというのです。
栄枯盛衰?
「更級郡には有力な町や村ができて合併していった、大岡村が最後まで残ったのは単独でもやっていける自信があったから、更級郡の中で一番有力な村と書きたいのだが、その村が…」
確かに大岡村は村の外からの移住、定住人口を増やす施策がそれなりに功を奏し、長野冬季オリンピックでは芦ノ原地区の巨大わら細工の道祖神が世界に中継された村。小林さんは大岡村について「自分だけでやっていて立派にやっていく村だったことは歴史的に確実。その理屈が通らなくなったのも本当。歴史的には栄えたものが衰えるのは仕方のないこと」とも言いました。
講演の内容は、つじつまの面で疑問に思う指摘もあり、また、全体として合併しない方がよかったというニュアンスだったため、講演後にはふさわしい人だったのかと批判する人もいました。一方で、元気をもらった人もいると思います。あいさつを「本日はおめでとうございます」という言葉で締めくくった長野地方事務所長に比べると、体温を感じさせる内容でした。
式典には、千曲市(旧更埴市と戸倉町、上山田町)の市長(出席者は代理)も来賓で招かれていました。かつての更級郡の村々を多数抱え、また、大岡村の合併の過程では、更埴市側との合併論議も大岡村にあった経緯からだと思います。
実際、大岡村の方々は、稲荷山町(旧更埴市)が商いでにぎやかだったころ、馬車や徒歩でよく山を下って買い物にきたそうです。今でも稲荷山の年配の方はその姿を自分の目で見て覚えていて、そうした歴史的なつきあいが論議を俎上に載せた背景にあります。
しかし、車が移動手段となった現在、大岡村の暮らしは、犀川沿いの国道19号線経由で、長野市街に行く方が便利です。役場からは2車線の舗装道路も下って接続しています。千曲川に出るときに通る村々もすでに長野市に合併しています。合併するなら長野市というのは実態からして不思議のない選択でしょう。
心配なことがあります。長年にわたり都市のお子さんを受け入れてきた「山村留学」はこれから「長野市に」となります。新聞の俳句短歌欄では山村の暮らしを詠んでも、詠み手の住所は「長野市」となります。
「○○村」という呼び名が口の端に載らなくなるということは、後に続く世代に、ふるさとの一体感を持たせることをとても難しくさせます。地区間にあったつながりを薄く、ひょっとしたら切ってしまい、結果的に住んでいる人たちを孤立させる恐れもあります。
まるごと一つ
現在進められている国の市町村合併政策は、将来の経済情勢や今の税制ではもう山間の村々を国がもう手厚く援助することはできないという観点からと言っていいと思います。「高福祉」と言われる村々の独自施策も国の支援があって成り立っていたわけですから、はしごを外されたと思っている自治体も多いでしょう。
かつては、人材を都市に送り出しているのが田舎なのだから当然と、考えていましたが、先立つものの保障がない以上、仕方がないかとあきらめがあるのも事実です。
長野市長は式典のあいさつで、「多軸都市」という言葉を使い、大岡村と一緒に長野市に合併する戸隠村、鬼無里村、豊野町も含め各地域の特色を生かす施策に取り組む考えを示しました。
その志を遂げるために大事なのは、特例債(借り入れによって集めることを国が今回の合併で特別に認める資金、つまり借金)よりも、住民、出身者、そして伝来の文化を基に培ってきた地域独自の暮らし方を尊いと思う方々の知恵と汗でしょう。山間地から多くの人が下って都市は成り立っていますが、いつ平地に住めなくなるか分からない時代です…。
郡が設けられた今から約1400年前の飛鳥時代、信濃国は10郡で成り立っていました。明治時代なって、長野県はうち六つを上下と南北に分け、計16郡としたのですが、まるごと一つの郡がなくなったのは「更級郡」が初めてです。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。