以下は千曲市羽尾4区三島在住の郷土史家、大橋静雄さんの文章。姨捨駅を出て冠着駅に向かうときに通る「冠着トンネル」が蒸気機関車の時代どんなものだったのか、さらしなの里友の会だより24号=2011年春=に寄せたもの。写真はすべて大橋さん撮影。一番下の写真は1970年2月22日、姨捨駅を出発した最後の蒸気機関車の様子
冠着トンネルは2656㍍の長さと25%の登り勾配が冠着駅まで続いている。明治から昭和の中ころは、質の悪い石炭(西条石炭)を使用しため、トンネル内に入るとスピードが落ちてしまい、立ち往生することもあった。
トンネルは煙突状態にもなっていたので坂井村側に空気が流れ、煤煙は機関車の前方に押し出されたため、機関士や乗客は煙と蒸気に巻き込まれ、窒息事故が発生し何人か入院している。
この対策に引幕(ひきまく)(左の写真)が採用された。現在、御麓(みろく、千曲市羽尾5区)と坂井村側(現築北村)のトンネル入り口の鉄枠に幕を巻き上げるウインチの跡がみられる。大正のころ、御麓の故夏目幸高さんの大祖父と祖父の道定さん(右の写真)の2代にわたり、御麓側の「引幕」を守ってこられた。この作業は機関車がトンネルに入ると幕を下ろす作業で、これにより機関車の後方が真空状態になり、煤煙は吸い込まれ事態は改善された。
昭和になると便数が増え、排煙が間に合わなくなった。昭和6年(1931)3月、坂井側出口に排煙装置(左の写真)が設置された。この装置は船に使われていた375馬力のディーゼルエンジンで、直径8㍍の風車を回し、秒速30㍍の風を御麓側へ強制的に送った。その勢いは御麓側出口でも秒速7㍍の風速だった。
これを担当したのが坂井村の宮澤華さん(右の写真)であった。華さんは昭和17(1942)年の除隊後、この任務に就き、御麓の道定さんと二人三脚で煤煙と戦い、機関士と乗客を窒息事故から守ってきた。お二人とも昭和45(1970)年2月22日、「さよなら列車」D51549の蒸気機関車を見送ったのち引退した。