更旅225号・さらしなは「科野」から誕生?

更旅225・さらしなと科野samuneiru

 質問 長野県の昔の呼び名「信濃」と「さらしな」は、「しな」という音をともに持っていますが、なにか関係があるのですか。 
 A はい。あると考えたほうがいいようです。現在の長野県域となる地域は、漢字が中国から入り記録に残されるようになった始め、都の記録(古事記)には、「科野」という漢字で紹介されています。天皇が各地の豪族を束ねて中央集権国家をつくる過程で現在の県市町村につながる行政機構を設け、更級郡と埴科郡も成立したのですが、この二つの呼び名は「科野」をもとに誕生した可能性があるのです。上信越高速自動車が当地に建設された際、大がかりな発掘調査が行われたのですが、それを裏付ける証拠が発見されているのです。
 行政機構はトップの考えや決まったことをすみずみまで行き渡らせるシステムで、日本では今から約1300年前、現在の奈良県で、当時の文明国だった中国に習い国を治める仕掛けとして導入されました。歴史の授業で「701年大宝律令制定」と教わりましたが、これは官僚制度による中央集権国家の誕生を宣言したもので、このころ日本は現在の都道府県に相当する60以上の国ぐにからなり、「信濃国」もその一つでした(「信濃」という漢字は、奈良時代はじめ、名前は縁起の良い字を使うようにという命令を受け「科野」の音だけ残して変更されました)。信濃国はさらに10の郡に分けられ、奈良の都から派遣された国司のもとで地元の有力豪族から選ばれた郡司が各郡を治めました。
 上信越高速建設の際の発掘報告書(タイトルは「長野県屋代遺跡群出土木簡」)によると、古事記に記された「科野」は現在の善光寺平を中心にした国と考えた方がよくなりました。当時の役人が命令などを書き込んで回覧した細長い板(木簡)が多数、発見されたのですが、その中に国司が政務を執った国府が現在の千曲市屋代(旧埴科郡)にあったと考えた方がいい証拠があったのです(詳しくはシリーズ69、71)。となると、屋代一帯が科野なので、郡を設ける際、千曲川の西側を更級とし、東側を埴科とした可能性があるのです。
 二つに分けるために両郡の名前が新たに決められたか、すでに地元ではそうした呼び名があってそれを採用したのか、どちらが先か分かりませんが、二つの呼び名が生まれた背景を想像してみます。
 左上は上信越高速自動車が建設される直前の上空写真で、旧更級郡は千曲川の西に広がり、続く山並みはなだらかです。東(埴科郡)の山並みから上った太陽の日差しを受け、朝日が差し込む場所になります。シリーズ159でさらしなの地名の成り立ちを語源辞典をもとに「明るく澄んだゆるやかな坂の地」と紹介しましたが、明るさ新しさを強調したくなる気持ちがあって、「さ新シナ」と呼びたくなったのでは…。
 一方の埴科です。埴には黄土色の粘土の意味があります。とすると、焼き物用の土がとれたことからの名前でしょうか。木簡が発掘された場所のすぐ南側の山頂には科野を治めた豪族の王墓との説がある長野県最大の「森将軍塚古墳」があります。ここは粘土で作られた埴輪で囲まれていました。お墓の聖域を囲むように並べられた埴輪は神聖で権威を象徴するもの、だから埴科?。
 千曲川のように地域を大きく二つに分ける川がある以上、川の向こう側とこちら側を区別するのはうなづけます。その際に科野のシナを核にしたさらしな、はにしなを正式な郡名にした可能性があります。初期の科野国府があったかもしれない屋代周辺にはシナのつく地名が集中しています。倉科、保科、波閇科、信級…。篠ノ井も含め、「科野」から派生した地名かもしれません。
 「長野県史・通史編第1巻」によると、「科野」の支配者一族は当時の日本の友好国だった朝鮮半島の百済に人材を送ったり、馬の生産を大々的にやり、奈良の都と密接な関係がありました。それなら、都の人々が盛んに当地を往来したでしょう。結果的に、さらしなという地名が月の美しい場所をイメージさせる場所でもあったわけですが、以上のような歴史、地理的な条件も重なって名実ともに疑いのない「月の都さらしな」が誕生した可能性があります。

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