18号・県歌「信濃の国」を作詞した浅井洌の更級小校歌

 更級小学校(旧更級村、現千曲市)の校歌の作詞者は、「信濃の国」をつくった浅井洌(です。浅井はほかにもたくさんの小学校校歌をつくっています。その中でも更級小は1908年とかなり早い時期です。どんな思いから浅井は更級小校歌をつくったのでしょうか。思い切って推測してみます。
 里を上から下から
    浅井が信濃の国を発表したのは更級小校歌作詞より9年早い1899年(明治32)。当時、浅井は小学校の教員を養成する長野師範学校の先生をしていました。51歳、油が乗り切っていたころです。
年表をごらんください。同年に冠着トンネルが開通し、翌年の1900年には姨捨駅が開業します。1902年には松本まで中央線が開通します。浅井の生地は松本です。それまで歩いて長野まで往復していたのが、列車という新しい乗り物に乗って旅人のような気分で「姨捨」を体感していたと思われます。一方、これに先立つ1888年(明治21)、すでに信越線が開通しています。
浅井は列車を使って、修学旅行にも何度も出かけます。対岸の埴科郡を走る車窓から「あれが姨捨山」、冠着トンネルを抜けては「ここが更級の里」と眺めていたでしょう。子どもたちにも「よく眺めなさい」と言っていたでしょう。薀蓄も傾けていたかもしれません。
更級小校歌の1番をごらんください。上から下からこの里を眺めていたがゆえに、1番の歌詞が生まれたと言えないでしょうか。
 名所のトリ
浅井が姨捨や更級にひかれたのは和歌に長じていたためです。信濃の国の中でも四番で特に強調しています。4番は、古来都の人たちがあこがれた信濃の名所を強調した部分で、月で知られる姨捨山は昔から風雅のある人たちが詩歌に詠んで伝えてきた名所であると、うたっています。
園原とは都から来た人たちが美濃の国(岐阜県)から神坂峠(現在真下に中央自動車道恵那山トンネル)を越えて入る最初の信濃の名所です。そして名所のトリとして月の姨捨山を浅井は掲げています。作曲した北村季晴が4番を変調させたのも浅井の特別な意図を汲んだためと思われます。
さて、この4番の締めくくりを更級小校歌三番と比較してみてください。更級小校歌の3番は「…月にみがきて更級の 里の名を世に伝うべし」。月の光で更級の里をさらに磨いて、里の名を世の中に伝えなさい、という意味です。
信濃の国の4番は「伝えたる」で終わります。先行して作られたのが信濃の国ですから、浅井はこの「伝えたる」を更級小校歌でさらに一歩進め、由緒ある更級の里なのだから世の中に、後世に「伝うべし」、つまり伝えなさいと言っていると解釈できます。更級小校歌は信濃の国の4番をベースにつくられているようです。
信濃毎日新聞社発行の年表「信濃の歩み」で、1901年には長野から姨捨まで臨時観月列車が出たとの記事を見つけました。姨捨への世間の関心の高さがうかがえます。浅井もその列車に乗っていたかもしれません。
 誰が依頼した?
では、浅井にだれが更級小校歌の作詞を頼んだのでしょうか。考えられるのは当時の小学校校長か村長、もしくは村の有力者でしょう。それぞれお名前は平林今朝十さん、中村与五作さん、有力者としては初代村長の塚田雅丈さんでしょうか。
平林さんも長野師範の卒業生だったでしょうから、そのつてでお願いした可能性があります。塚田雅丈さんは羽尾地区の郷嶺山に観月殿をつくって更級村の村おこしを盛んにしていたので、浅井は姨捨駅で降りてここを訪ね、雅丈さんと知り合いになっていたかもしれません。雅丈さんは1887年に県会議員になっていますから、長野に行った時に作詞を頼んだ可能性もあります。浅井は雅丈さんより1年だけ遅い生まれですから、気心も合ったでしょう。
 県下に知られる踊り
 このように考えるようになったきっかけは、校歌3番の「里の名を世に伝うべし」の歌詞です。作者者の「更級の里」への強い思い入れと期待が感じられるからです。更級小校長室には、巻紙型の和紙に書かれた浅井直筆の歌詞が表装されて飾られています。現在の石井智校長先生に許可をもらって撮影しました。
更級小の運動会といえば、父母による信濃の国の踊りが有名です。大正時代末の運動会のプログラムには踊りが盛り込まれており、またPTAが熱心に取り組み始めたのは昭和30年代からではと石井校長先生は言います。私は昭和36年生まれ、そういえば運動会が近づくと母がよく踊りの練習に出かけていました。
今も踊りをこれほど大々的にやっている学校は珍しく、全県下に知られるほどに力をいれてきたのは、浅井への感謝の気持ちからと言っても的外れではないような気がします。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。