江戸時代の俳人、松尾芭蕉の句で当地にちなんだ代表的なものが次の句です。
俤(おもかげ)や姨(おば)ひとりなく月の友
貞享五年(1688)の中秋8月15日、のちに「更科紀行」として発表される旅の目的地だった長楽寺周辺(千曲市八幡地区)を訪ねたときの感慨を詠んだ句です。境内には人間の背丈を超える句碑(左の写真)が建っています。
母の手で育つ
この句の「姨」には、年老いた老婆と、自分の母親のイメージが重なっていると思います。芭蕉の母親が亡くなったのは、更科への旅の5年前(天和3年)なのです。 芭蕉の家は地侍という下級武士の家柄で、その暮らしは農民に近かったそうです。母は芭蕉が十二歳のときに夫を失います。つまり芭蕉の父親が死んだわけで、芭蕉は女手で育てられました。
芭蕉の生誕地は三重県伊賀上野。家は芭蕉の兄が継ぎました。芭蕉は伊賀上野一帯の領主の一族である藤堂家に奉公に出て禄を食んでおり、藤堂家で俳諧の精進を続けていたのですが、29歳で、江戸に出ます。俳諧は和歌の延長上に生まれた言葉遊びです。五七五の発句の後に別の人が七七のリズムの言葉を付ける連句から生まれました。ただ、まだ今のように五七五の俳句としては独立したものになっていませんでした。
芭蕉は五七五の芸術性を開花させるべく江戸に出たわけですが、故郷に残してきた母親は、芭蕉が深川などでたくたんの門人を従えるほどに力をつけた九年後、芭蕉が四十歳のときに亡くなります。残念ながら芭蕉は死に目に会えませんでした。
伊賀上野への帰郷を果たしたのは、その翌年の秋、後に「野ざらし紀行」としてまとめる旅ででした。「野ざらし紀行」は、芭蕉が死を覚悟して自分の俳諧芸術を完成させよとして江戸から西国に歩く旅です。ひょっとしたら、この旅に自分の人生をかけようとしたきっかけは、母親の死だったかもしれません。(芭蕉の代表作「古池やかわず飛び込む水の音」の句もこの旅の後に作りました。「野ざらし紀行」についてはシリーズ72で触れています)。
遺髪を手に…
帰郷を果たした際に、母親の遺髪を手にして詠んだ句です。
手に取らば消えん涙ぞあつき秋の霜
秋も深まって寒さが増してきたころだったと思いますが、芭蕉の内側には悔いや感謝、申し訳なさなど本当にさまざまな感情が去来して熱い涙を流しように読めます。それなのに母親の髪はすっかり白くなっていて、さらさらと手から消えてしまうのではないかと思うくらいにはかない白髪だったのでしょう。
この句からは「慟哭」という言葉が浮かんできました。俳句としては字余りですが、それを補っても自分の思いを表現するにはこの形の句が必要だったということでしょうか。 特にこの「涙」という言葉が母の死から、「さらしな・姨捨」への旅を貫く心のキーワードではないかと思います。芭蕉は更科での月見をして江戸に戻った後に、更科紀行とは別に「更科姨捨月之弁」という短い俳文を書くのですが、その中で強烈に「涙」を意識させる文言が出てきます。短いのでほぼ全文を記します。読みやすくするため表記を一部変更するなどしています。
(冒頭略)ことし姨捨月んことしきりなりければ、八月十一日美濃の国をたち、道遠く日数少なければ、夜に出て暮に草枕す。思ふに違わず、その夜さらしなの里にいたる。山は八幡とい里より一里ばかり南に、西南に横をりふして、すさまじう高くもあらず、角々しき岩なども見えず、ただ哀れ深き山の姿なり。慰めかねしと伝へけむも理り知られて、そぞろにかなしきに、何ゆへにか老ひたる人を捨てたらむと思ふに、いとど涙落ちそひければ
俤や姨ひとりなく月の友 芭蕉
十六夜もまださらしなの郡哉 同
ことしは、姨捨の月がどうしても見たくなって8月11日、中秋までは四日しか残されていないとてもハードなスケジュールで岐阜県を旅立った、なんとか予定通り到着して月に照らされた姨捨山を眺めると、古今和歌集で「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」と詠んだ古人の気持ちがよくうかがわれた。どうしてこんなこんなところに老婆を捨てたのだろうか、それを思うと涙が頬を伝ってしょうがない、そして、その上で「俤や姨ひとりなく月の友」の句を作ったと表明しているのです 母親の遺髪を手にしてこぼした「涙」と、さらしな・姨捨で月見して流したこの「涙」の熱さが、つながっているように思えないでしょうか。
謡曲「姨捨」
俤には亡き母の面影も重なっていると思います。芭蕉が生きた時代の前、中世までは、当地で一番高い冠着山が姨捨山とされていたので、この冠着山の頂上を見ながら謡曲「姨捨」に登場する老婆の姿を思い描いた可能性があります。
謡曲は能楽の脚本で、「姨捨」は中秋の名月がまもなくのとき、都の人が更級の月を見るため姨捨山に急いでやってきて頂上で更級の里に住む女性に出会うところから物語が始まります。この女性に都人が「老婆が捨てられた場所はどこか」と尋ねると、先に紹介した古今和歌集の「わが心…」の和歌を持ち出し、「私の立っているこの場所です」と教えます。この後、里の女性が実は捨てられた老婆で、中秋の名月のときには毎年、「執念の闇」を晴らそうと姨捨山の頂上に現れていることを明かし、月の光のもとで舞を舞います。謡も奏でられ、月が隠れると老女も姿を消します。
繰り返しになりますが、芭蕉が更科に到着したのは中秋8月15日の夜。芭蕉の母は実際には山には捨てられたわけではありませんが、世話になった母を故郷に置いたまま江戸に上り、九年も会わずにいたことからすれば、心のうちでは捨てたと後悔していたかもしれません。
ですから、この謡曲に登場する老婆を母に重ねて思い描いたとしても不思議ではない状況でした。世阿弥も芭蕉と同じ三重県伊賀上野の生まれです。世阿弥は1363年ごろに生を受け、芭蕉にとって世阿弥は自分より約300年前の故郷の偉人ですから、芭蕉も世阿弥のこと、「姨捨」という謡曲を当然、知っていたでしょう。
ですから、俤句の「なく」には捨てられて月の光を浴びながら一人泣いている老婆と、すでに他界してあの世にいる年老いた母の二つのイメージが重なり、つまり、「泣く」と「亡く」の両方の意味が込められている―芭蕉が本当にそのように意図したかどうかは分かりませんが、そのように読んだ方がこの句の味わいは増します。芭蕉研究者の間で、もっと取り上げられていい句だと思います。
今年が芭蕉の更科来訪320年なので、それを記念して「まんが 松尾芭蕉の更科紀行」という本を作りました。著者は、「まんが紀行 奥の細道」で日本漫画家協会賞特別賞を受賞しているすずき大和さん。すずきさんは間と空間の描写に独自の作風を持つ漫画家、絵本作家で、この本では月の詩人としての芭蕉の真髄を描き切っています。書店などで販売しています(価格は税込みで1680円)。右の写真が本の表紙です。
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