133号・横浜の寺に眠る蚕界偉人・大谷幸蔵さん

 千曲市更級地区の更級小学校交差点から100メートルほど坂道を上ると(大字羽尾字仙石地区)、石垣の左の一角に石碑が見えてきます。当地では最も大きな碑の一つで、「蚕界偉人 大谷幸蔵君之碑」と刻まれています(写真①)。書は戦後日本の復興の基盤をつくった総理大臣、吉田茂さん。大谷幸蔵さん(1825〜87)は江戸幕末、日本が鎖国から開国に舵を大きく切ったとき日本の貿易業の先駆者だった人です。
 当時、海外に通用する日本の商品は生糸でしたから、養蚕王国だった信州から打って出ることができました。(養蚕と旧更級村との関係はシリーズ7参照)。この碑の右隣、現在の寿高原食品さんの資材置き場が幸蔵さんの屋敷跡です。ただ、直系のご子孫は当地におらず、どうなさっているのか気になっていたのですが、ようやくお目にかかることができました。
 故郷の生地を刻む
 宮城県仙台市にお住まいの大谷満行さん(写真②)です。昭和17年(1942)のお生まれで幸蔵さんから四代後、玄孫に当たる方です。満行さんと連絡が取れたのは、「蚕界異人・大谷幸蔵」(尾崎章一著)という本が取っ掛かりです。大正3年に出版されていたのを、幸蔵さんの顕彰碑を現在地に建立(昭和26年)するのに合わせ、さらしなの里友の会初代会長の大谷秀志さん(故人)ら若いころ、村の有力者らと新たに増補出版したものです。幸蔵さんの生い立ちと業績をまとめた最も資料性の高い本で、巻末に横浜市の能満寺というお寺に幸蔵さんのお墓があると記されていました。
 能満寺には本堂の欄間や梵鐘などの寄付もしたそうですが、大正十12年(1923)の関東大震災で焼けてしまいました。実際に訪ねてみました。当時の寄付品をうかがうすべはないのですが、戦後に整備したと思われる墓地に幸蔵さんの墓がありました。それが③の写真。立派な笠石が載り、正面に「大谷家之墓」とあり、裏面に幸蔵さんの戒名、そしてその右隣には「信州更科郡羽尾村」と生地が刻まれていました(写真④)。
 私も幸蔵さんの生地の縁戚の人間であることや更級の歴史を調べていることなどをお寺のご住職に伝え、大谷満行さんの連絡先を教えていただくことができました。
 墓碑にその後の消息
 幸蔵さんは時代の先駆けとなる仕事をして顕彰碑を建ててもらうような功績を残した一方で、地元、松代藩の農民らに屋敷を焼き討ちにされた過去があります。幸蔵さんは幕末、松代藩から商才を見込まれ、商品価値の高かった絹織物や生糸などを大量に手に入れ、それを売って松代藩の財政資金に当てていました。しかし、明治維新後、政府軍側として出兵し、旧幕府軍との間の戊辰戦争で松代藩は財政を極度に悪化させ、農民への支払が滞り、農民は生活資金に窮乏しました。そのため明治3年(1870)、農民が大挙して松代藩に押し掛けた一揆「午札騒動」が起きました。
 そのとき、幸蔵さんは生糸を吐く蚕の卵を台紙に張り付けた日本の蚕種を海外で販売するためイタリアにいたのですが、留守を預かっていた幸蔵さんの妻らが焼き討ちを逃れて、長男の三作さんがいた横浜の店に逃げのびたと「蚕界偉人・大谷幸蔵」に記されていました。当時、幸蔵さんの妻や三作さんはどんな思いだったか。そんなことを考えていたので、横浜・能満寺で幸蔵さんが故郷を追われた後の消息が墓碑でつかめそうになったときはうれしかったです。
 特にうれしかったのは先に紹介した幸蔵さんの生地の表記を「信州更科郡羽尾村」と刻印したことです。「更級村」でないのは、没年が羽尾村が若宮・須坂両村と合併し「更級村」を名乗る2年前だったからです(シリーズ13参照)。「更科郡」は「更級郡」が正しいのですが、側面と台石に、逃げのびた幸蔵さんの奥様の曾乃さんや三作さんの没年月日(それぞれ明治8年、昭和3年)もしっかり刻まれており、ようやくその後の幸蔵さんご一家に会えたような気がしました。
 まだ、木の色の残る供養板もあるのでゆかりの人が存命だと思い、能満寺のご住職から、大谷満行さんのことを教えてもらったわけです。「蚕界偉人・大谷幸蔵」の本のコピーを同封して取材をお願いするお手紙を満行さんにお送りしました。着いたころを見計らい電話を差し上げたところ、満行さんはご先祖が長野県出身であること、さらに幸蔵さんの業績についてコピーを読んで初めて知ったとのことでした。お宅に何枚か写真が伝わっているというので、「とにかく会ってほしい」とお願いし、応じていただきました。
 資料提供した三作さん
 三作さんの晩年の写真(⑤)をお借りすることができました。⑦の写真は幸蔵さん(右)が蚕種の輸出で活躍しているころ、幸蔵さんを補佐していた三作さん(左)です。三作さんの晩年には若いころの面影が残っています。「蚕界偉人・大谷幸蔵」の中には三作さんが幸蔵さんの遺品を本の著者に積極的に提供したとの記述もあり、「幸蔵さんを一番よく知る自分の使命」と考えていたと思います。
 三作さんの後継ぎが太郎さん、お孫さんが廣行さんで、満行さんは廣行さんのお子さんです。満行さんは一人っ子で、満行さんもお子さんは娘さんお一人なので「大谷幸蔵家は私でおしまいになるでしょう」とおっしゃっていました。廣行さんは東京にお住まいでしたが、満行さんは仕事の関係で仙台市に20年以上、在住し定年退職、そのまま仙台にお住まいです。「満行」というお名前は能満寺の先代のご住職がつけてくださったそうです。
 「蚕界偉人・大谷幸蔵」中に掲載されている幸蔵さんらの一部の写真は満行さんもお持ちで、お母様の信子さんからアルバムで受け継ぎました。「蚕界偉人・大谷幸蔵」は千曲市立戸倉図書館で借りることができます。また、この本を作るにあたって使った資料は千曲市教育委員会が保管しています。写真⑥は仙石地区(旧更級村)にある大谷一門の墓地にある幸蔵さんの父、巳代蔵さんのお墓です。満行さんの右にある仏壇のお写真はお母様です。なお、NHKテレビドラマ「坂の上の雲」の時代は幸蔵さんの活躍の少し後の時代を扱っています。俳人、正岡子規の当地への来訪(1891年)は幸蔵さんの死去から4年後です。
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