7号・お国を内外に知らしめた更級斜子

 「現代人は更級から蕎麦(そば)屋を連想する人が多かろうが、江戸末期人・明治人は粋な着物も連想した。更級(さらしな)斜子(ななこ)というものがあった」
 さらしなの里歴史資料館(旧更級郡更級村、現千曲市)の協議員もして下さった、長野県立歴史館文献史料課専門主事の児玉卓文さんがお書きの文章の冒頭です。
 ふっくら光沢
 これを羽尾(旧更級村)にお住まいの郷土史研究家、塚田哲男さんから見せていただき、そんなこともあったんだと誇らしく思いました。さらに読み進め、更級斜子という絹織物を織る技術を考案したのが江戸時代生まれの羽尾の女性だったことを知りました。

  斜子とは縦横それぞれの糸を2本以上並べて織ったもので、基本的なものは2本ずつです。織り目が比較的大きく方形で魚の卵のように粒だって見えるところから「魚子(ななこ)」とも書かれます。少し厚めの生地になって織り目が浮かんだり沈んだりという変化があるので、浮かんだ部分には光が反射しキラキラするような感じがします。

 斜子にはまた、()斜子(ななこ)練斜子(ねりななこ)の2種類があり、生斜子は()った糸をそのまま使います。それに対して練り斜子は、糸を石鹸を入れた湯で煮て、その糸にゼラチンや葛などの糊をつけて織ります。最終的にはぬるま湯で糊抜きをするのですが、これによって布面はふっくら、しなやかで光沢がでるのだそうです。
 更級斜子の多くはこの練斜子でした。生斜子に比べ、かける手間が多いので高級品になり、羽織などによく使われたそうです。
  この技術を考案したが塚田政子さん(通称お政さん)です。お政さんは寛政10年(1798)に生まれました。お政さんが10代のころ、家に住み込みで仕事をしていた長野県高遠地方の石工がいたのですが、その石工を訪ねてきた男性から、着ていた着物のきれ地を少し分けてもらい、仕組みを解明したのでした。
  「日本の織物」(源流社)によると、斜子という織り方は江戸時代になる前の中世のころ始まりました。まだ、服装にぜいたくができない時代でしたから、技術は全国には広まらなかったのでしょう。石工の知り合いの男性が着ていたものが粋な斜子織りだったと考えられます。斜子でつくられた着物は戸倉や稲荷山など旅人の多い街道沿いの繁華街では着ていた人が多かったと思います。お政さんはただうらやましがるだけではなく、織り方を研究し、地域の人たちに教え広めたのです。
 大谷幸蔵も背負った
 塚田哲男さんによると、まもなく羽尾だけでなく、芝原、若宮にも普及して更級村をうるおしました。絹糸を生み出す蚕は、それまでは畦や山に植えていた桑をえさにして細々と飼われて育てていましたが、田畑にも植えるようになり、大きな現金収入になっていった、と言います。
   19世紀、江戸時代も後半になると、商品作物が発展し、暮らしが豊かになっていきます。衣料品はとても貴重品でしたから、価値あるものに一早く触れ、それを地域全体の産業につなげていくという点で、お政さんは地域起こしに多大な貢献をしたわけです。現代の女性起業家にも通じます。
 幕末の松代藩の有力商人で日本で初めて蚕種を海外に直輸出した仙石(旧更級村)出身の大谷幸蔵は、更級斜子を背負って江戸、横浜に進出しました。お政さんの貢献があったから大谷幸蔵も台頭することができたのです。更級斜子の多くは染めを施していない「白斜子」と呼ばれたものです。幸蔵は「これがおらの国の物産」と誇らしげに商いをしたかもしれません。「更級」という言葉のもつ澄んだイメージと白色の生地がだぶり、ほかの地から産した白斜子より値段もよかったのではないでしょうか。多くの外国人の目に触れ、欧米諸国に持ち帰られもしたでしょう。
 更級斜子が広辞苑にも載っているのは、こうした歴史的な背景も影響しているのではないでしょうか。農協の前身である長野県農会が大正7年(1918)に発行した「長野県農事視察便覧」でも、更級郡の代表的な産物として「更級斜子」が取り上げられ、「更級村及び近村ヨリ産ス」と解説がついています。私の母も「おばあちゃんがよく織っていた」と言います。年配の方にとってはさほど遠い昔のことではありません。
 さらしなの里歴史資料館では2001年3月、お政さんの功績を朗読劇にしてその遺徳をたたえました。実は技術を広めた人がこれまでに刊行されている資料では別人となっていて、これを塚田哲男さんが新たな史料をもとに考証してお政さんの名誉を正しく明らかにしたのです。(詳しくは、さらしなの里歴史資料館紀要第一号、あるいは戸倉町史談会発行の「とぐら」第27号をご覧ください)
 感動する心

 朗読劇の後、お政さんの直系で五代目のご子孫に当たる塚田重晴さんが、斜子織りの教本が見つかったと言って、資料館にお持ちくださいました。重晴さんの祖母みのるさんの姉、つまりお政さんのお孫さんにあたる「きゆう」さんが書いたものです。表紙には「明治三十四年四月 機織筆記」と記されています。きゆうさんは旧上山田町(現千曲市)の羽場にお住まいの宮原哲雄さんの家に嫁ぎました。嫁入り道具として持っていったようです。宮原さんが見つけてくださいました。当時は各家に(はた)があり、嫁は自分で織れないと一人前扱いされない時代でしたから、さぞ大事なものだったでしょう。
 今回の記事の前半にある斜子の説明の多くは、実はこの教本に基づくもので、織物の専門家でもあるさらしなの里歴史資料館の荒井君江さんに読み解いてもらいました。荒井さんは「美しいものに感動する心と好奇心がお政さんにはあったんだと思います。この教本をもとに当時の更級斜子を復元することも可能です」と言います。
 斜子について調べていく中で、サボテンに白斜子という名前があることを知りました。絹織物の白斜子のイメージを重ねたようです。その美しさは姿を変えて現代にも生きています。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。